落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

買物地獄

2009年05月22日 | diary
先日、友人とショッピングしてたときのこと。
某有名セレクトショップで、フックにかかっていたレザーのトートバッグ(¥116,000)が見たくて、手を伸ばして下ろしてみた。
すると担当の店員(40代男性)がすかさず「見終わったらそこに置いといて下さいね」とのたまった。
つまり要するに、ぐりはそのバッグを買うような客には見えなかったワケですね。彼には。
そりゃさ、確かにアタシゃ型押しのバッグに10万以上も出しゃしませんて。単に見てみたかっただけです。でもさあ、なんでそんな感じ悪いこといちーちいわにゃならんの?客に?

その次に覗いた某有名アクセサリーショップにて。
指輪が見たくていろいろ薦められるままに試着してみたのだが、夕方という時間帯もあって指がむくんでいて、これは出直した方がいいなと判断したのだが、店員(20代男性)は「どーしても今買わせる」とゆーモードに入ってしまっていてなかなか解放してくれない。
「(今買わないと)サイズがなくなっちゃうから」の一点張りである。
それでもどーにかふりきって店を後にしたのだが、店員はそっぽを向いて挨拶すらしなかった。
時間を割いて接客してくれたのに買わなくて悪かったけどさ、買わない客の応対もアンタの仕事でしょーが。「また来て下さいね」程度の社交辞令いったからって何かが減るわけじゃなし。

近年めっきりショッピングが楽しくなくなって、毎度毎度同じような店で同じようなものばかり買うようになったけど。
モノをいろいろ見てまわるのは楽しいんだけど、なぜかすぐに疲れてしまう。商品そのものが魅力的でも、店の雰囲気が心地良くなかったりすると、「絶対にここでは買うまい」という気分になってしまう。
中年になって偏屈になったワケではないと思う。
もともと商魂逞しい関西で育ったぐりの目から見れば、昔から東京の店の接客態度には納得いかないことが多かった。一見の客が多いという土地柄もあるんだろうけど、そもそも店や商品に対する愛情が薄いのかセールストークにも信頼性を感じにくくて、それがどうしても不自然に感じてしまう。
例えば、関西で買物をすれば店員はかなり積極的に客に話しかけて来る。でも無理に買わせようとはしない。無駄遣いをさせてまで必要ないモノを押しつけようとはしてこない。店にぴったりのモノがなければ、近所の別の店をすすめてくれたり、ちょうどいいものが入荷したら連絡する、というくらいのサービスはする。
けど最近、東京で買物をしていると、店員は客にその商品がほんとうに必要か、買った後、商品がどうなるか、客がどうなるかというビジョンなどまったく考えずに、とにかく今ここで何がどうでも財布さえ開かせればそれでいいみたいに思える。とりあえず無理くりにでも客のテンションを上げさえすりゃあ何か買うダロ的な、理不尽な上から目線がイタい。
買った後のことなんかどーでもえーやんけ、なんつったら関西ではその店は早晩つぶれる。人の多い東京ではそれで許されるのかもしれないけど。

それとデパートとかファッションビルで買物しててキモイのがー。
客が来ても話しかけもしないのに、妙な声で機械的に「いらっしゃいまっせー」「いらっしゃいまっせー」と連呼するあの習慣。なんなのアレ?間がもたないからいってるだけなんだろーけど、聞いてる方はサムいです。いってる方はサムないの?
あの「いらっしゃいまっせー」コールの店では何ひとつ買おうとゆー気が起きてこないワタクシ、やっぱ偏屈でしょーか?

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ネタなら笑えるけど、リアルじゃ笑えもしないからねえ・・・。


先日の記事に書いた市場跡の廃屋。

前にも書いたネタですが

2009年05月19日 | diary
先日、妹と原宿を歩いてましたら。
中国系と思しき女性に「NHK放送センターはどこですか?」と訊かれ。ちょうど同じ方面に行く途中だったので、いっしょに行きました。
NHKってよく行き方を訊かれるんだけど、口頭で説明すんのはややこしーよね。なので大体は近くまで送って行きます。よほど急いでない限りは。

前にも書いたけど、しょっちゅう知らない人に道を訊かれます。
都心にひとりで出かけたなら訊かれない日はまずない。絶対訊かれる。そして半分以上は外国人。
声をかけて来ても道を訊かないお人もおられます。道尋ね以外ではナンパとキャッチセールス、宗教の勧誘も多い。有楽町駅の脇を歩いてて3人に「手相を勉強している者ですが」といわれたこともある。同時に3人じゃなくって、続けて3人。渋谷の文化村通りでもやっぱり続けて3人に「手相を〜」と寄って来られた日もあった。さすがにここまで来るとうぜえ!と思いますが。かと思えば無目的に話しかけて来る人(「その服どこで買ったの?」「ごはん何食べたの?」とか「うちの息子と結婚してくれない?(実話)」とか)も多いです。
都心でなくても、海外旅行に行っても声をかけて来る人は多い。やっぱり道尋ねとナンパと、あとは目的不明(言葉がわからない)。てゆーか明らかに外国人観光客とわかっててなぜに道を訊く。
駅や電車の中でもよく声をかけられる。「どこそこに行きたいのだが、乗換えはどーすればよいのか」とゆー地方から来られた方にもちょいちょいつかまる。トラブルで電車がとまったなんてアナウンスがあれば、そのホームにいる外国人は大体まっつぐぐりのところへやって来て「何事か」と訊ねる。
そういう時も、一応わかる範囲内では教えてます。言葉が通じなければ絵を描く。もし逆の立場だったらぐりがそうしてほしいから。

とゆー話を妹にしてたら、妹もよく道を訊かれるらしー。彼女の場合まだ上京して間がないので(1年半)、教えられないことが多いそーなのだが。
もしかして“ 知らない人に声をかけられても無視しない人です”とゆーオーラは体質?遺伝?なのだろーか?両親やもうひとりの妹はそんなことないらしーけど。
ちなみに妹の方は「外国人にはまだ訊かれない」とのこと。じゃーなんでアタシは訊かれんの?というと「おねーちゃんは日本人に見えない。『日本暮らしが長い外国人』に見える」とのたまった。なんだそりゃ。顔だちでいえば妹の方が全然エキゾチックだと思うんですけども。まあある意味「日本暮らしが長い外国人」で間違いはないですけどもね。
しかし、なにゆえ日本人が、渋谷ハチ公前のスクランブル交差点の信号待ち(ゆーまでもなく芋洗いのごとく激混みの人ごみ)でわざわざ「日本暮らしが長い外国人」をつかまえて道を訊かにゃいかんのかは説明がつかんぞな。
わらしべ長者みたいに、いつかこの正体不明のオーラがなんかの役にたてばいいんですけどねえ。

ちなみに今までに行き方を訊かれたスポットの(だいたいの)ベスト5。
渋谷C.C.Lemonホール(旧・渋谷公会堂) ダントツ。
NHKホール・NHK放送センター NHK大人気。
シアターコクーン含むBunkamura・東急百貨店本店 説明するまでもないよーな?
赤坂駅 外国人が多いところなので外国人によく訊かれる。
東京ミッドタウン 渋谷と同じく道が説明しにくい六本木。

ぐりは関西育ちだけど、関西から来ると東京の道ってホントわかりにくいよね。やたらぐねぐねしてるしアップダウンは多いし、標識は不親切だし。
遠方から来る客の多いスポットは、もっと近くに標識出すべきだと思うよー。


トゥクトゥク。タイフェスにて。
しかしこーゆーの、買ってナニに使うんやろ?単なるコレクション?

私の舌を入れさせて?

2009年05月18日 | book
『プラトニック・セックス』 飯島愛著
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昨年12月に死去した元タレント・飯島愛が2000年に発表した自伝。
うーーーーん・・・タレント本ってほとんど読んだことないからよくわかりませんがー。こんなんでいーのー?結構売れたんじゃなかったっけ?コレ?映画化もされたし。はあー。気分悪なってきたわー。
とりあえず日本語そのものがおかしい。実際に書いたのはプロのゴーストライターらしーけど、プロならば最低限の文法くらいまともに使いこなせませんとねえ。
内容も薄過ぎる。具体性も客観性も奥行きもなく、中途半端に抽象的な文章がまとまりもなくタラタラタラタラ繋がってるだけ。
読んでても何を訴えたいのかがまったく伝わってこない。

書かれているのはしつけに厳しかった両親との確執、非行、恋愛とセックス、友情、お金。
家出して水商売から売春、AV嬢とある意味お約束のコースを歩く女の子の自伝とくれば、これもまるでお子様ランチのメニューのように決まりきっている。
でもそのエピソードのひとつひとつに、現実的な裏づけや、生きたリアリティを感じさせる彼女自身の言葉というものはいっさいない。全部が上っ面の一般論で片づけられている。
当然中身はスカスカになる。本全体が隙間だらけの未完成なパズルに見える。全部組み上がってもどういう絵が完成するのかもわからないパズル。
それどころか文体そのものもきわめて陳腐で無個性。読み物としての魅力がどこにも見つけられない。

読むのに1時間くらいしかかからなかったけど、全然違う意味でアブナイ本だとも思い。
読んでるとこの稚拙な日本語に言語感覚が侵されてくるよーな感じがする。ヤバい。もう読んじゃダメー。思い出すのもヤメヤメー。
けどもう死んでしまった彼女のことを思うと、自伝がこんなんじゃなあと同情したくなる。ほんとうはこんなテキトーにお手軽な本なんかじゃなくて、もっとキチンとした言葉で語られてしかるべきメッセージがあってもおかしくないのになー?って。
残念なり。


関連レビュー:
『らぶどろっぷ【元AV嬢の私小説】』 まりも著

沖の不知火

2009年05月17日 | book
『サンダカンの墓』 山崎朋子著
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先日レビューした『サンダカン八番娼館―底辺女性史序章』の続編。
長崎県島原地方に暮す元からゆきさんを取材して回想をまとめた『八番娼館』の刊行後、故国日本の土を踏むことなく現地で亡くなったからゆきさんの墓を探し、日本人娼館の跡地や存命のからゆきさんを訪ねた旅行記「サンダカンの墓」と、からゆきさん取材にまつわるエピソードを記したコラム集「サンダカン拾遺」を収録。

だーっ(溜息)。疲れた。重かった。
元からゆきさんの自宅に居候をして体験談を聞き書きした『八番娼館』はあくまで日本側の、騙されて売りとばされ醜悪な仕事を強制された“被害者”である女性の視点から書かれた本だったのに対して、この本は続編であると同時に、まったく別の視点から同じ「からゆきさん問題」を捉えている。
『八番娼館』では東南アジアで売春をした女性たちの個人的経験と、その背景となった当時の人身売買システムが主な題材になっているが、『墓』では、実際に訪問した現地側からの視点で、日本からやってきた“侵略者”の一部としてからゆきさんは結論づけられている。
要するに、かなり単純化された図式にはめこまれて読みやすくまとめられていた『八番娼館』の続編でありつつ、『墓』はそれとは比べ物にならないくらい複雑で広い視野を要求する本になっている。
そりゃもう読んでて疲れるわさ。

読んでて疲れる要因のひとつには、独特の文体もあるかもしれない。
ぐりはこの時代(1970年代)に書かれたノンフィクションを読みつけないので、これがフツーなのかどーなのかよくわからないんだけど、とりあえずいちいち大時代とゆーか、大袈裟とゆーか、感情過多なんだよね。古い本だからしょーがないのかもしんないけど、今からみると「それはどーか?」な表現もわりとめだつし。なんでもかんでも一般論化されるのはやっぱねえ?なんか違う?って感じがどーしてもしてしまうです。
それでも『八番娼館』はおサキさんを含め取材に応じた人々の言葉をまとめた聞き書き形式になってたから読みやすかったけど、『墓』は全文著者個人の主観で書かれてるから、読んでて肩がこってこってしょーがなかったっす。

コラム集は分量的にも軽めで読みやすかったし、おもしろかったです。
内容は『八番娼館』のその後・舞台裏、いってみればメイキングみたいな感じで、『八番娼館』を読んだ人なら誰でも知りたかったようなことがさらっとまとめてある。
資料としてはべつにどーっちゅーこともないんだけどね。

今も世界中に被害者がいる人身売買の歴史。
現代日本に住んでいるとどうしても他人事のように思えてしまうけど、かつては日本人にも、人とは思えないほどひどい仕打ちを受けて遠い異国の地にさらわれていった女性たちがいて、その背後には日本のアジア侵略の歴史も深く関わっていた、そういう入り口からこの問題を知るという意味では、うってつけの本ではあるかもしれない。
現在刊行されている『サンダカン八番娼館』には『墓』もいっしょに収録されてるみたいなので、まとめて読むのが正しいかと。

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故郷探訪

2009年05月16日 | diary
先日も書きましたが、GW中に友人と奈良に遊びに行きまして。
奈良町といって、奈良市内でも最も古い歴史的な住宅群が残っている地区で、雑貨屋さんとかカフェとかバーとかレストランとかが集まってるらしー?みたいなとこを散歩したんだけど、時間が遅かったのか中途半端だったのか、ほとんどの店は閉まってるかまだ開いてないかで、観光客もいなくて、てゆーか人が全然いなくて、閑散としてました。なんか拍子抜けー。
それでおかしかったのがー。いっしょに行った友人が「こんなん全然歴史的とちがう」とのたまい。
友人は京都っ子で今も市内中心部に住んでるから、奈良町程度はフツーなんだなーって思って。凡人のぐりの目には充分「歴史的」に見えたんだけどね。大体が戦前〜昭和30年代?くらいに建てたおうちが多くてさ。

その次の日に、実家でやることがないので、天気もいいし、自転車に乗ってブラブラしてたんだけど。
まずは駅前まで出て、それから旧国道を通って、川を渡って隣町の商店街を抜けて次の駅前まで行って、それから高校の方に行って、川を渡って戻って来て、中学校の前を通って、幼稚園や保育園の前を通って、小学校の前を通って、ぐりが生まれ育った古い家を見に行って(実家は17年前に引っ越した)・・・なんて3時間近くウロウロしてました。
それで思ったんだけど、やっぱ奈良町フツーだわって(爆)。
京都や奈良もそうなんだけど、ぐりの地元も戦災には遭わなかったから、戦前の建物がかなりそのまま残ってるんだよね。バブル景気のときの開発ブームもほんの一部地域にしか関係なかったし、例の震災でもそれほど深刻な打撃を受けなかったから、全体的にはホントにずうっと時間が止まったまま、みたいな風景になってる。古い土塀と門のある小家や、窓に格子のはまった町屋、しま模様のテントの下に電球を下げて木製の露台を並べた八百屋さんとか。もうビックリするくらいレトロです。今はいったいナニ時代?
子どものころはこんなのフツーだと思ってたけど、毎月毎月ぼんぼんと新しいビルが建てられてどんどんお店が入れ替わる東京に住んでる今見ると、なんか頭の具合がヘンな感じがする。

ただぐりが地元にいたころと違うのは、長い不景気─バブル崩壊と震災─の影響で街がかなり寂れてしまってるってところ。商店街はそっくり残ってるけど、閉まってる店ばっかりがだーーーっと並んでて、人もいない。ショッピングモールとかアウトレットに行けばそれなりにいるんだけど、それ以外のとこはどっこもガラ〜ンとしてて、淋しいもんです。だから、風景はそのままなのに知らない町みたいに見える。
小さいころおつかいに行った市場ももうない。地元には2ヶ所市場があって、1ヶ所は地元の建設業者が買収して社屋と展示場に変わった。悲惨なのはもう1ヶ所で、地上げ屋が買収に入ったものの地元住民の熾烈な反対運動に遭って、市場は閉鎖されたのに開発計画そのものがポシャって、見るも無惨な廃屋が朽ちるがままに放置されている。
子どものころ、母が書いたメモを持って、アーケードを行ったり来たりしながら食材を買い集めた懐かしい市場。お馴染みのパン屋さんもお総菜屋さんもお肉屋さんも、みんなどこかに行ってしまった。
その建物が、ボロボロに崩れかけた姿を晒しているのを目にするのはやっぱりとっても悲しい(今の実家のすぐ近所なので、帰省するたびにイヤでも目に入る)。なんでこんなになっちゃったんだろ?
ぐりはバブル景気の恩恵をまったく受けていない世代だから、よけいに、この町をこんなにしてしまったあの時代を、恨めしく思ってしまう。

実家を出て20年近く、今までは帰省してもあんまり出歩かなかったけど(地元の友だちもほとんどが別の地域に移っている)、これからはちょいちょいあちこち見ておきたいなー、と改めてちょっと思いました。


高校の近所の図書館。建造は昭和10年。
元は公会堂だった建物で、某文豪が徴兵検査を受けた(合否はともかくとして出征はせず・・・とゆーとどなたかおわかりですなー)場所として有名なところ。