落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

Timshel

2009年05月15日 | book
『エデンの東』 ジョン・スタインベック著 土屋政雄訳
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先日、映画『グラン・トリノ』を観ましたが。
その後、両親も鑑賞したというので感想を訊ねたら、「自分にも思い当たるシーンがいっぱいあった」とのことだった。まあそーだろーな、と予想した通りの感想だった。
『グラン・トリノ』の登場人物は全員、移民かその子孫である。というか、アメリカ人は(一部のネイティブ・アメリカンを除いて)ほぼ全員がそうなのだが、この映画ではその出自がより強調された物語になっている。そして移民というアイデンティティには、多かれ少なかれ、基盤の欠けた家庭に育った人間特有の孤独がつきまとう。
ぐりの両親は日本で生まれた移民2世だから、この映画を観て身に積まされることはいくらもあるだろう。3世のぐりにだってあるくらいだから、なおのこと。

『エデンの東』はスタインベックの祖父、サミュエル・ハミルトンのエピソードから始まる。
19世紀に北部アイルランドから妻を連れてやって来た男。なぜその妻を選んだのか、どうしてアメリカに来たのかは孫の著者にもわからない。ぐりに、いつどこで祖父母が知りあって結婚し、なぜ日本に来ることになったのかがわからないのと同じだ。
このサミュエルはこの物語の主人公ではない。というか、ここには特定の主人公はいない。映画『エデンの東』ではキャルを演じたジェームズ・ディーンが主役だったから(といっても未見)てっきり彼の話かと思ってたけど、そーじゃなかったです。あえていうなら、主人公はハミルトンとトラスクというふたつの家とゆーことになるのかな?そのふたつの家の、3世代にわたる長く苦しい呻吟そのものが、この小説の主人公である。

その呻吟とは、決して満たされることのない愛をめぐる苦悩である。
人間は誰もが、愛する人に優しく抱かれて「おまえがいちばん大切だ」と囁かれながら眠りにつく、そんなたわいのない欲求を秘めた、たよりなく、淋しい生き物を心に飼っている。おおかたの人間はいつか「足るを知」り、その生き物をうまくコントロールすることもできる。でもどうしてもそれができない人もいる。
そういう人は、誰にどんなに愛されていても目に入らない。その愛が、本人には愛だとは理解されることがないからだ。彼は自分で理解できない愛を求めてひたすらのたうちまわる。いつの日か、それが「自己憐憫」というエゴであることに気づくまで。
そうした「夢幻の愛」との戦いは、この物語ではチャールズとアダム、キャルとアロンという二組の兄弟によって語られる。この兄弟のたどる運命は、作中にも登場する旧約聖書・創世記第4章の「カインとアベル」のエピソードにぴたりと重なっている。

カインとアベルはエデンの園を追放されたアダムとイヴの間に生まれた。成長した兄カインは農作物を、弟アベルは羊を神エホバに捧げるが、神が弟の供物しか受け取らなかったため、嫉妬に狂った兄は弟を殺してしまう。それが神に知れ、カインは地上をさすらう者として一生を終えることを告げられ、彼に出会う者が誰も彼を殺さないよう、神は兄カインの額に印を付けたという。
とくに重要とされているのは第7節「汝若善を行はば擧ることをえざらんや。若善を行はずば罪門戸に伏す。彼は汝を慕ひ、汝は彼を治めんという部分。従来は「あなたは罪を治めるだろう」という預言、あるいは「あなたは罪を治めなければならない」という命令として訳されていたこの部分を、スタインベックはオリジナルのヘブライ語を研究し、「あなたは罪を治めることができる」という自由な選択肢として解釈した。
つまり、罪を負い続けるとしても、いつかそれを克服するとしても、いずれにせよそれは人間の自由だ、それほど人間は偉大な可能性にみちている、という神の愛が、この一文にこめられているという。

だがその自由のなんと残酷なことだろう。
現実には、人は「おまえは罪人だ」「悪人だ」「無能だ」「無価値だ」と決めつけられ、その重みと苦しみをただ背負い続けて生きることの方がずっとラクだったりもする。重みや苦しみに、いつか人は慣れる。それが自分の一部分になり、境界が見分けられなくなっていく。それが生きているという証明でもある。
だがその重みと苦しみを放り出すのも消化するのも自分次第ということになってしまえば、その中へ自分を埋没させて逃避することはできなくなる。どうかして解決することで、自らの人間性を証明しなくてはならなくなる。
人間は誰もが生まれながらに罪人である、と聖書はいう。それならば、人間は生きている限りその罪を背負いながら、それと戦う運命をも背負っているということなのだろうか?
ぐりは聖書にもキリスト教にもまったく詳しくないけど、大丈夫、ほんとうはおまえにはあんなこともできる、こんなこともできると励まされることが、ときにはなによりも苦しく感じるのが人間なのではないかと思っている。神が人間を自分そっくりにつくったというなら、そんな弱さをつくったのも神ではないのか。
この物語では二組の兄弟をそれぞれ善と悪の権化として設定しているけど、完全な善は凶器にもなり得ること、完全な悪というものは存在し得ないことをも描いている。そこのその部分に、ぐりはいちばん人間性を感じたけど。

スタインベックの作品は『怒りの葡萄』を中学生時分に読んだきりで、『エデンの東』は今回が初読。十代のころハマったコミック『CIPHER』の中で重要なテーマとして繰り返し登場していて、ストーリーもおおよそ知っていたので、いつの間にか勝手に読んだような気分になっていた。
初めて『CIPHER』を読んだときも大泣きしたけど、あれから20+α年、『エデンの東』でもボロ泣きさせていただきました。けど、えーと、物語が進行するにつれて展開のスピードが異常に加速してく構成はやっぱちょっと・・・ひっかかるものが・・・ゲホンゲホン。
ところでこの作品、4〜5年前から再映画化(リメイクではなく原作により忠実な企画らしー)の話が持ち上がってて、今年になってやっと監督と脚本家が決まったとか。こんだけ壮大な話を今どーやって再現すんのか、まったく想像つきませんけども。とりあえず誰が出るのかは楽しみですなー。

休みボケ継続中

2009年05月14日 | diary
こないだゴールデンウィークのことをちょこっと書きましたがー。その続き。

福島県に行ったのは両親と、旅行会社のパックツアーだったんですが。
ぐりは実はパックツアーとゆーのがとーても苦手で、自分ではまず行かないです。知らない人苦手だし(せっかく休暇で旅行してるのに無駄に気を遣いたくないといゆードケチ根性)、お土産屋さんばっかし連れまわされるのがウザイし(旅先でお土産ってまず買わない。興味ない。どうでもいい)、だいたいツアーって食事がおいしくなかったりするし(旅行=食事のいやしんぼうですいません)。
でも両親はちょくちょくパックで旅行してて、今回はたまたま事情があって同行することになった。

ものすごくひさしぶりにパックで旅行したんだけど、まーこれはこれでラクですわね。自分で調べたり探したりしなくていいとゆー。現地ではずーっとバスだから、道に迷うとかガス欠になるとかそーゆー心配もいらないし。
けどかんじんの宿+食事はねー。やっぱし・・・ううう。初日はヒドかったっすー。宿自体もそうとうしょっぱかったけど、あの食事はいくらなんでもヤバい。その昔、日本料理屋でバイトしてたぐりの目から見てもヤバすぎる。キケンキケン。
それと名所旧跡でそこのお土産屋の人がガイドしてくれるのもなんだかねえ。バスガイドさんや添乗員さんはラクできていいんだろうけどー。名所案内と土産もののセールストークがごっちゃになって、かつセールストークがメインになってたりするとハラたつよ。ウチらここまでなんしに来たん?みたいな。あとミョーな上から目線が気になり。「この名所は自分たちのもの」+「あんたらどーせパックツアー」的な。やかましわ。そんなガイドの店で誰がナニ買うっつーの。

お土産屋さんトークとゆーと、飯盛山もそーだった。ふもとのお土産屋さんの女の子(歴女?)がガイドしてくれたんだけど。
飯盛山といえば白虎隊。白虎隊はもともと会津藩士の師弟の教育機関・日新館の学生を、戊辰戦争時に年齢別に編成した予備隊のひとつで総勢300人以上。飯盛山で自決したことで有名な20人はそのうちの士中二番隊のそのまた一部である。年長の隊長とはぐれ、実戦経験もないのに最新の武器を備えた敵に追い回され、仲間の死を目撃し、怪我はする、雨は降る、おなかはすく、そのうえ帰るべき鶴ヶ城は燃えてるよーっ(←完璧な勘違い)てな展開で早まって集団自決してしまった、不運な子どもたち。とゆーのがぐりの解釈です。えーとぐりも十代のころはお約束通り、幕末史にハマってたことがありますのでー。ひととおりは知ってます。ハイ。
今では小説やTVや映画の題材になって、老いも若きも大好きな幕末史だけど、白虎隊もふくめ幕府軍側は明治維新後長く沈黙と忍耐を強いられてきた。「勝てば官軍」というように、負けた幕府軍側の生残りや遺族や関係者は、「朝敵」「逆賊」の汚名を着て、ひっそりと息をひそめて暮さなくてはならなかった。
それが講談や芝居で人気を得始めたのは、日本が軍国主義に染まり始めた昭和初期。理由はあえて述べるまでもない。当の生残りや直接の遺族はどう感じていただろう。何を今さら、という気持ちだったんじゃないかと思う。

それを感情たっぷりお涙頂戴調子でとくとくと語られてもね。ちょっと聞いてらんないっす。根性曲がっててごめんなさいましよ。
大体さあ、会津藩て明治以降に国替えになって士族は斗南(青森県)へ全員引越したはず。だから今の福島の人はあんまし関係なくね?ってのも偏見なんだけどねえー。
これも有名な話だけど、会津戦争で戦闘があったのは今の暦で6〜11月。ところが戦争終結後も会津藩の戦死者は埋葬が許されず、約半年間も風雨に曝されて放置された(理由は諸説ある)。白虎隊の死んだ子どもたちも同様だった。腐乱した遺体は身許の判別などつくはずもなく、数十人単位でまとめてひとつの穴に埋められた。そういう塚が、飯盛山だけでなく市内各所に残っている。
その情景を想像すれば、戦争をネタに涙の感動話をすることそのものが不謹慎な気がしてしょうがないです。だって大義がどーとか忠義がどーとか、結局殺しあいじゃないですかあー。


奈良・東大寺のシカ。別名クレクレ(勝手に命名)。
観光客が歩いてると、「ぶー」とか「ぷー」とか「びー」とかちっちゃく鼻を鳴らしながら寄ってくる。「せんべいくれよ」攻撃。鼻を鳴らさないやつは首を縦にふりふりする。昔来たときはこんな芸はなかった気がする。クマ牧場のクマ並みに進化してるのか?シカよ。
中にはせんべい売りのブースにぴたっと張りついて、観光客がお会計を済ませるとすかさず「クレクレ」攻撃をかけるのもいる。ブースには直接ちょっかいは出さない。出すとしてもせんべいではなく売り子さんに「ねえ〜ん、ちょうだいよお〜」みたいな感じですりすりしてたり。学習しとるやん。数も増えたよーな。前からこんなうじゃうじゃいたっけ。
近鉄奈良駅の近所で車道を全速力で走ってるやつもいたけど、実際年間何回かは衝突事故も起きてるらしーです。シカもかわいそうだけど、ぶつかったらクルマもドライバーも危ない。気ぃつけなさいよー。

画像の後ろに修学旅行生が写ってますが。今でも来るのね。奈良。すんげえいっぱいいたよー。旅行会社のガイドさんが、境内にもクルマの通行があるので「もし万一ね、はねられたりしたらー、すごい痛いですからー」なんて女子高生に注意してたのにはわろた。「危ないから」「大変なことになるから」みたいな抽象表現じゃなくて、「すごい痛い」ってのがわかりやすくていいね。

Why didn't you burn the tapes?

2009年05月13日 | movie
『フロスト×ニクソン』

1974年、ウォーターゲート事件で失脚したニクソン元米国大統領(フランク・ランジェラ)だが、昇格したフォード大統領の恩赦によって訴追を免れ、アメリカ国民の不満は爆発寸前にまでふくれあがる。1977年、イギリスでトーク番組の人気ホストとして活躍していたフロスト(マイケル・シーン)は、巨額のギャラをエサにニクソンにインタビューする契約を交わすが、アメリカのメジャー局は彼の企画に見向きもせず、製作費のあてがなくなってしまう。
ピーター・モーガンの舞台劇を映像化した心理サスペンス。

ウォーターゲート事件のことは以前に本で読んだはずなんだけど・・・なにしろ政治のことは疎くてねえー(爆)あんまし記憶に残ってないー。ヤバいわーわたしのノーミソ。
まーでもこの映画、ぶっちゃけ政治とはなんにもカンケーありません。そもそも主人公のひとりであるフロストが政治と関係ないからね。彼はジャーナリストでもなんでもない、コメディアンあがりの番組司会者、いわば単なるタレントですから。
でもたぶん、それこそがこのインタビューの成功のもとだったんだろうとも思う。もしフロストが気鋭の政治ジャーナリストなら、ニクソンはそもそもインタビューなんか受けなかっただろうし、受けてたとしてももっとしっかり武装して臨んだはずだと思う。ニクソン陣営は頭から完全にフロストをナメてかかっていた。ただのタレントごときにいいように喋らされるわけがない、そう思ってたから、無防備にもインタビューを受けてもかまわないと判断したんだろうし、何を聞かれても自分のペースで喋れるとふんだんだろうと思う。

でもフロストもバカじゃない。資金面でもキャリアの上でも、フロストは崖っぷちにたたされていた。視聴者が期待するだけの映像が撮れなければ、彼自身のタレント生命が一巻の終わりになってしまう。
ニクソン陣営の読みが足りなかったとすれば、フロストにどれだけのピンチが迫っていたかという、相手側の状況を計ってなかったという点に尽きるだろう。
そしてフロストには、それまであらゆる著名人の心を開かせ、語らせてきたという、インタビュアーとしての経験と魅力と才能があった。それは政治家やジャーナリストにはわからない領域だったのかもしれない。

丁々発止のインタビュー合戦と同時進行で、フロストの必死の金策劇も描かれる。
現在の日本ではTV局が番組を企画して局内で製作したり外注に出したりするのが主流だが、欧米も含め海外では、フロストのように、プロデューサーやジャーナリストや制作会社が企画して局へ持ちこむ形式が主流になっている(昨今のアメリカはその限りではないらしいけど)。
メディアのあり方としてどちらが健全なのかは一概にいえないけど、視聴者側としては、そういうスタイルも多様なコンテンツが観られて楽しかろーなー、とは思います。
いずれにせよ、ほとんどTV観ないぐりにはあんましカンケーないかもしんないけどね(爆)。

Master of Puppets

2009年05月13日 | movie
『ニセ札』

1951年に山梨県で実際に起きた贋造紙幣事件をモデルにしたブラックコメディ。
昭和25年、山あいの小さな村の小学校で教師を勤めるかげ子(倍賞美津子)のもとに、教え子の大津(板倉俊之)が贋札づくりの計画をもちこんでくる。初めは反対するかげ子だが、元地主の戸浦(段田安則)、紙漉きの喜代多(村上淳)、写真屋の典兵衛(木村祐一)など計画に参加する者も集まり、貧しい村の子どもたちに教育を受けさせたい、少しでも楽をさせたいという親心から荷担を決意する。

んー。お話自体はとってもおもしろいんですが。全然悪くないんだけど。
でも冒頭に記録映像を持って来て時代背景を強調したわりには、時代考証が甘いよね・・・全体にさ。村の貧しさ、貧しさゆえの悲壮感にいまいちリアリティがない。だからなのか、戦争が終わって時代が急激に変わって、その変化についていけない、なにか釈然としないものを感じてる登場人物の内面にも、もうひとつ説得力がない。
べつに必要以上にシリアスにする必要はないんだけど、最後のかげ子の台詞だってすごくいいこといってると思うんだけど、それをきちっと聞かせるためにも、リアリティにはもっとこだわってほしかったです。
まあまあおもしろい映画ではあるし、観てソンってことはないんだけど。

ぐりが高校生のころ、川崎市の竹薮の中で持ち主不明の2億円の札束が見つかって大ニュースになったことがあった。バブル景気の真っ只中の出来事だった。
ちょうど学園祭の直前の時期で、ぐりのクラスではこの事件をモチーフに「Master of Puppets」というオリジナルの演劇を上演して賞をもらった。ふつうの高校生が2億円を拾って徐々に人間らしさを失っていくという物語で、最初の脚本はかなりシリアスというかペシミスティックなものだった。登場人物が死んだりグレたり、わりに荒廃したお涙頂戴な内容になっていた(これには脚本を書いたクラスメートの家庭に事情があったことが後に判明した)。何度もホームルームで議論をして、ぐりは「人が死ぬ話ではこの物語のテーマは伝わらない。“お金なんかただの紙きれ”だということを表現したいなら、もっと楽しくやるべきだ」と主張したのを覚えている。
それに脚本担当が賛同してくれたのか、結果的には物語はコメディに書きかえられ、そのおかげか2度の上演は2度とも超満員の大爆笑、大成功をおさめることができた。

ちなみにぐりはこのときの演劇では美術を担当した。2億円×2回ぶんの「ニセ札」ももちろんぐりが用意した。
映画にこの演劇のラストシーンそっくりの場面があって、ものすごく久しぶりに、あの学園祭を思い出した。楽しかったなー。みんな今ごろ、何してるかな?

Without hope, life's not worth living.

2009年05月13日 | movie
『ミルク』

アメリカで初めてゲイを公表して公職に就いた政治家ハーヴェイ・ミルクの伝記映画。2008年度アカデミー賞主演男優賞・脚本賞受賞作。
1972年、ニューヨークで保険会社に勤務していたハーヴィー(ショーン・ペン)は年下の恋人スコット(ジェームズ・フランコ)とサンフランシスコに居を移してカストロ地区でカメラ店を開業した。彼の店はやがて周辺に住む若いゲイたちのサロンとなり、ハーヴィーは彼らの代弁者として政治活動を開始。73年・75年の落選を経て、77年、ついにサンフランシスコ市議に当選するのだが・・・。

ハーヴェイ・ミルクのことは名前くらいしか知らなかったんですがー。でも全然知らなくても楽しめる映画でした。
確かに映画は彼が政治活動を始めてからの時期─いわば晩年─に絞って描かれていて、それまでの前半生はばっさりと省略されている。そして多分にドキュメンタリータッチで表現されている。
映画は、彼が生前、暗殺を予測して「暗殺されたときにのみ再生すべし」として遺言を録音するシーンから始まる。このテープは実在していて、これまでにさまざまな記録映像にも登場している著名な録音だというが、物語はこのテープと同時進行で、ミルク自身がカミングアウトしてからの後半生を回顧するという形で展開する。
ぐりはこのテープの現物を聞いたわけではないので、映画の内容がどの程度このテープに沿っているのかはよくわからない。それでも、死んだ人間が自分で自分の軌跡を回想するというタイプの伝記映画は、これまで観た中ではちょっと記憶にない。それだけ、彼自身が自らの政治活動を「背水の陣」と捉えていたということなのだろうか。

ハーヴェイは政治家だから、当然政治活動が物語の中心になる。だが映画そのものから受ける印象はさほど政治的ではない。
なぜなら、ハーヴェイが求めたのは「政治」でも「権力」でもなかったからだ。少なくともこの映画ではそうだ。
彼はただ、人間が人間らしく生きられる社会を求めていた。彼は同性愛者だった。同性愛者の友だちもたくさんいた。だから自然と、彼は同性愛者の人権のために戦うことになった。彼はひとりでも多くの同性愛者に幸せになってほしかった。誰にも迫害されたりしてほしくなかった。自殺なんかしてほしくなかった。彼らはハーヴェイの個人的な友であり、仲間であり、家族だった。友や仲間や家族の幸せを望まない人間はいない。その感情は、人としてごく当り前の気持ちでしかなかった。彼はそれを、なによりも大切にしたかったし、誰にもそう感じてほしかっただけなのだ。
映画には、そうした友や仲間や家族─パートナー─が無数に登場する。彼らの間に流れるあたたかい友情や愛情や絆は、セクシュアリティをこえて、観る者誰もの心に迫る。彼らがベッドで誰と寝ていようと関係ない。それは彼らの問題であって、他の誰の問題でもないのだ。

彼が暗殺された時代から、セクシュアル・マイノリティの置かれた社会環境は多少は変化しただろうか。変化はあったかもしれない。でも進歩というほどの変化ではない。
どうしてこの世の中から差別はなくならないのだろう。それが愚かな人間の性だからなのだろうか。そのことを思うたび、悲しくなる。涙がとまらなくなるくらい悲しい。
もっと悲しいのは、差別を悲しまない人もいるという事実の方だけれど。