おばあさん子の私は、百島を離れてからも当分泣いていたようです。
大阪では、両親と兄と家族四人の生活が始まりました。
その頃には、父は、現在の係長のような職になっていたのだと思います。
何人もの部下の人達と一緒に働いていたようです。
大阪での家は、借家だったと思いますが、二階建ての家で中庭もあったし、松の木や他の植木も多くあり、子供心にも広い家のように映りました。
それからの大阪での生活は、そのうちに慣れて見るものが総て珍しくて、百島での暮らしと全く違って楽しい事ばかりでした。
父の休みの日は、父母に連れられて道頓堀の賑やかな街に出かけたり、その頃の活動写真や芝居を観て、食堂に連れて行って貰ったり、大阪寿司やお菓子など沢山食べて一日中楽しく過ごした事は、本当に懐かしい思い出であります。
大阪での我が家は、九条新道の近くの安治川沿いで、その当時は、まだ護岸もなく、砂浜があって、其処に小さな造船所が何箇所もありました。
近所の子供達に連れられ、安治川でよく遊んだものです。
そこの砂浜に、綺麗でピカピカと光る黄銅鋼が多くあり、いつもそれを拾い集めて、私達子供は、よく遊んだものです。
そんな頃に、大阪では、大きな賑やかな行事があったのを憶えています。
その時は、私には分かりませんでしたが、あとで、それが御大典だったと教えられました。
大阪の街は大変な賑わいで、花電車も走っていて、大勢の人が出て、商店街は、飲み物類は何処も無料でふるまっていました。
それが、昭和天皇即位式の祝典でした。
そして、翌年春、私は、大阪の小学校に入学したのであります。
学校は、市岡第一小学校でした。
入学式は、母に連れられて一緒に行ったのが懐かしく思い出されます。
ただ、その入学式で、母も気軽に思っていたのか、百島での格好はほとんど着物だったので、その着物姿で出席したものの、私一人だけが着物姿で恥ずかしい思いをしたことも覚えています。
そんなこともありましたが、学校は大きく、一年生だけでも何組もあり迷うほどで、1学年で、イロハ別に何組もの教室がありました。
運動場も広くて吃驚しましたが、学校は、家からもそんなに遠くはなかったので、そのうちに一人で登校もできて、その後、いろんな遊びも覚えて、学校の勉強も面白く楽しい日々が続いていました。
子供心にも、こんな生活が、いつまでも続けば良いと思ったりもしていました。
しかし、半年位が過ぎた頃、運命の悪戯なのか・・父が突然体に不調を生じて、当分は家で休んで医者に通うようになり、その後もしばらく通院する日が続いたので、止む無く仕事を断念する事になったのでした。
そして、父も残念であったに違いありませんが、一応百島に帰って、養生する他になくなりました。
楽しかった大阪での生活も、私にとっては、僅か三年足らずの期間でした。
それよりも、両親は、大変残念であったに違いなく、どんなに辛い思いであったろうかと子供心にも察することができました。
所詮、父は病には勝てず、我が家は、多くの夢を残して、大阪を引き揚げて百島に戻ることになりました。
又、いつの日か出直す事を願って、後ろ髪を引かれる思いで、百島に帰ったのでした。
時に昭和七年(1932年)10月の事でした。
大阪では、両親と兄と家族四人の生活が始まりました。
その頃には、父は、現在の係長のような職になっていたのだと思います。
何人もの部下の人達と一緒に働いていたようです。
大阪での家は、借家だったと思いますが、二階建ての家で中庭もあったし、松の木や他の植木も多くあり、子供心にも広い家のように映りました。
それからの大阪での生活は、そのうちに慣れて見るものが総て珍しくて、百島での暮らしと全く違って楽しい事ばかりでした。
父の休みの日は、父母に連れられて道頓堀の賑やかな街に出かけたり、その頃の活動写真や芝居を観て、食堂に連れて行って貰ったり、大阪寿司やお菓子など沢山食べて一日中楽しく過ごした事は、本当に懐かしい思い出であります。
大阪での我が家は、九条新道の近くの安治川沿いで、その当時は、まだ護岸もなく、砂浜があって、其処に小さな造船所が何箇所もありました。
近所の子供達に連れられ、安治川でよく遊んだものです。
そこの砂浜に、綺麗でピカピカと光る黄銅鋼が多くあり、いつもそれを拾い集めて、私達子供は、よく遊んだものです。
そんな頃に、大阪では、大きな賑やかな行事があったのを憶えています。
その時は、私には分かりませんでしたが、あとで、それが御大典だったと教えられました。
大阪の街は大変な賑わいで、花電車も走っていて、大勢の人が出て、商店街は、飲み物類は何処も無料でふるまっていました。
それが、昭和天皇即位式の祝典でした。
そして、翌年春、私は、大阪の小学校に入学したのであります。
学校は、市岡第一小学校でした。
入学式は、母に連れられて一緒に行ったのが懐かしく思い出されます。
ただ、その入学式で、母も気軽に思っていたのか、百島での格好はほとんど着物だったので、その着物姿で出席したものの、私一人だけが着物姿で恥ずかしい思いをしたことも覚えています。
そんなこともありましたが、学校は大きく、一年生だけでも何組もあり迷うほどで、1学年で、イロハ別に何組もの教室がありました。
運動場も広くて吃驚しましたが、学校は、家からもそんなに遠くはなかったので、そのうちに一人で登校もできて、その後、いろんな遊びも覚えて、学校の勉強も面白く楽しい日々が続いていました。
子供心にも、こんな生活が、いつまでも続けば良いと思ったりもしていました。
しかし、半年位が過ぎた頃、運命の悪戯なのか・・父が突然体に不調を生じて、当分は家で休んで医者に通うようになり、その後もしばらく通院する日が続いたので、止む無く仕事を断念する事になったのでした。
そして、父も残念であったに違いありませんが、一応百島に帰って、養生する他になくなりました。
楽しかった大阪での生活も、私にとっては、僅か三年足らずの期間でした。
それよりも、両親は、大変残念であったに違いなく、どんなに辛い思いであったろうかと子供心にも察することができました。
所詮、父は病には勝てず、我が家は、多くの夢を残して、大阪を引き揚げて百島に戻ることになりました。
又、いつの日か出直す事を願って、後ろ髪を引かれる思いで、百島に帰ったのでした。
時に昭和七年(1932年)10月の事でした。