昭和13年頃には、まだ瀬戸内海を走る帆船がよく見られた。
宇部のみぞめ炭鉱の船溜りに、三本マストの帆船が多く待機して、ここで石炭を積んで大阪方面に帆を高々と巻き上げて、風と潮流を頼りに帆走していた。
他にも、蒸気船の曳船が十数隻も艀を数珠繋ぎに曳航して、瀬戸内海を航行する姿もよく見られた。
あの当時の光景も眼に浮かぶが、まもなく帆船時代は終末を迎えて、機帆船時代の到来であったのである。
そんな折に、私は機帆船に乗ったので、それが私の生涯の羅針盤と定めて船員として働く事を運命として、海の男として人生を過ごすことになった。
機帆船はエンジンを使用して走るが、正式名称は帆船であり、必ず帆走設備が必要であって、その為に帆に関しての一通りの知識も習ったが、20屯未満の船は不登簿船だった為に船舶検査の対象外で、免状も不要で、船長も機関長も免状は無くてもよかった。
20屯を超えて200屯未満まで、甲板部は沿岸丙種航海士、機関部は丙種機関士免状で其々に船長も機関長も務めることが出来たのである。
200屯以上500屯未満まで、丙種運転士、発動機三等機関士、略して一般には、丙運・発三と言ったが、屯数は別として汽船は、小型鋼船でも種々の検査規を定められて各設備が求められ、当然、免状も乙種の免状が必要であった。
勿論、遠洋区域は甲種で、甲種・乙種・丙種・小型船免許等があり、細かい規定は、最近は変わっているらしい。
他に船舶の航行区域も種々あるが、船舶関係の法規を述べても仕方がないので話を戻す。
津久見と宇部の航路は、津久見で積荷待ちで停泊することが時々あって、早く休みが決まれば、上陸に便利な岸壁に繋船したので伝馬船を使う事もなく、私も何時でも街に出る事が出来て嬉しかった。
一方、宇部の港では入港すれば、夜でない限り、グレーンも二基しかなくて滅多に停泊する事もなかった。
時化で出港出来ない以外は、ほとんど「入れ出し」が多くて忙しいだけであった。
が、次第に船の生活にも慣れて日が経つにつれて仕事も覚えるようになると、機関員の見習いとしても興味を持ち機関室に入るのが楽しく思う様になった。
その船のエンジンは、焼玉発動機の80馬力の神戸赤で、当時「神戸赤」と言えば日本一綺麗で調子が良いと全国的に知られた優秀な焼玉エンジンであった。
機関室はいつも綺麗で、見習いとして機関室に入り、いろいろ教えられたが、それまで見たこともない機械だと思った。
そのうえパイプ類が多くあって、それを全部覚えるのかと思うと大変だと吃驚したが、機関長は「そのうち分かるようになる」と言ってくれて、油を注すことから教えてくれた。
その頃の日本は、(中国大陸での)支那事変が始まって何も知らぬままに大変な時代に時代に入っていたのであったが、そんな事など知らないままに、船員になって、社会人として、国の為に、いつしか働く事になっていたのである。
当時の宇部は、炭鉱やセメント工場のほかに曹達会社や窒素工場、そして石油の工場等が立ち並ぶ工業地帯であった。
その宇部港が私の長い人生の出発点となったと言ってもよいかもしれない。
宇部のみぞめ炭鉱の船溜りに、三本マストの帆船が多く待機して、ここで石炭を積んで大阪方面に帆を高々と巻き上げて、風と潮流を頼りに帆走していた。
他にも、蒸気船の曳船が十数隻も艀を数珠繋ぎに曳航して、瀬戸内海を航行する姿もよく見られた。
あの当時の光景も眼に浮かぶが、まもなく帆船時代は終末を迎えて、機帆船時代の到来であったのである。
そんな折に、私は機帆船に乗ったので、それが私の生涯の羅針盤と定めて船員として働く事を運命として、海の男として人生を過ごすことになった。
機帆船はエンジンを使用して走るが、正式名称は帆船であり、必ず帆走設備が必要であって、その為に帆に関しての一通りの知識も習ったが、20屯未満の船は不登簿船だった為に船舶検査の対象外で、免状も不要で、船長も機関長も免状は無くてもよかった。
20屯を超えて200屯未満まで、甲板部は沿岸丙種航海士、機関部は丙種機関士免状で其々に船長も機関長も務めることが出来たのである。
200屯以上500屯未満まで、丙種運転士、発動機三等機関士、略して一般には、丙運・発三と言ったが、屯数は別として汽船は、小型鋼船でも種々の検査規を定められて各設備が求められ、当然、免状も乙種の免状が必要であった。
勿論、遠洋区域は甲種で、甲種・乙種・丙種・小型船免許等があり、細かい規定は、最近は変わっているらしい。
他に船舶の航行区域も種々あるが、船舶関係の法規を述べても仕方がないので話を戻す。
津久見と宇部の航路は、津久見で積荷待ちで停泊することが時々あって、早く休みが決まれば、上陸に便利な岸壁に繋船したので伝馬船を使う事もなく、私も何時でも街に出る事が出来て嬉しかった。
一方、宇部の港では入港すれば、夜でない限り、グレーンも二基しかなくて滅多に停泊する事もなかった。
時化で出港出来ない以外は、ほとんど「入れ出し」が多くて忙しいだけであった。
が、次第に船の生活にも慣れて日が経つにつれて仕事も覚えるようになると、機関員の見習いとしても興味を持ち機関室に入るのが楽しく思う様になった。
その船のエンジンは、焼玉発動機の80馬力の神戸赤で、当時「神戸赤」と言えば日本一綺麗で調子が良いと全国的に知られた優秀な焼玉エンジンであった。
機関室はいつも綺麗で、見習いとして機関室に入り、いろいろ教えられたが、それまで見たこともない機械だと思った。
そのうえパイプ類が多くあって、それを全部覚えるのかと思うと大変だと吃驚したが、機関長は「そのうち分かるようになる」と言ってくれて、油を注すことから教えてくれた。
その頃の日本は、(中国大陸での)支那事変が始まって何も知らぬままに大変な時代に時代に入っていたのであったが、そんな事など知らないままに、船員になって、社会人として、国の為に、いつしか働く事になっていたのである。
当時の宇部は、炭鉱やセメント工場のほかに曹達会社や窒素工場、そして石油の工場等が立ち並ぶ工業地帯であった。
その宇部港が私の長い人生の出発点となったと言ってもよいかもしれない。