ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

船員となって 4 ~神戸赤~

2010年05月21日 | 人生航海
昭和13年頃には、まだ瀬戸内海を走る帆船がよく見られた。

宇部のみぞめ炭鉱の船溜りに、三本マストの帆船が多く待機して、ここで石炭を積んで大阪方面に帆を高々と巻き上げて、風と潮流を頼りに帆走していた。

他にも、蒸気船の曳船が十数隻も艀を数珠繋ぎに曳航して、瀬戸内海を航行する姿もよく見られた。

あの当時の光景も眼に浮かぶが、まもなく帆船時代は終末を迎えて、機帆船時代の到来であったのである。

そんな折に、私は機帆船に乗ったので、それが私の生涯の羅針盤と定めて船員として働く事を運命として、海の男として人生を過ごすことになった。

機帆船はエンジンを使用して走るが、正式名称は帆船であり、必ず帆走設備が必要であって、その為に帆に関しての一通りの知識も習ったが、20屯未満の船は不登簿船だった為に船舶検査の対象外で、免状も不要で、船長も機関長も免状は無くてもよかった。

20屯を超えて200屯未満まで、甲板部は沿岸丙種航海士、機関部は丙種機関士免状で其々に船長も機関長も務めることが出来たのである。

200屯以上500屯未満まで、丙種運転士、発動機三等機関士、略して一般には、丙運・発三と言ったが、屯数は別として汽船は、小型鋼船でも種々の検査規を定められて各設備が求められ、当然、免状も乙種の免状が必要であった。

勿論、遠洋区域は甲種で、甲種・乙種・丙種・小型船免許等があり、細かい規定は、最近は変わっているらしい。

他に船舶の航行区域も種々あるが、船舶関係の法規を述べても仕方がないので話を戻す。

津久見と宇部の航路は、津久見で積荷待ちで停泊することが時々あって、早く休みが決まれば、上陸に便利な岸壁に繋船したので伝馬船を使う事もなく、私も何時でも街に出る事が出来て嬉しかった。

一方、宇部の港では入港すれば、夜でない限り、グレーンも二基しかなくて滅多に停泊する事もなかった。

時化で出港出来ない以外は、ほとんど「入れ出し」が多くて忙しいだけであった。

が、次第に船の生活にも慣れて日が経つにつれて仕事も覚えるようになると、機関員の見習いとしても興味を持ち機関室に入るのが楽しく思う様になった。

その船のエンジンは、焼玉発動機の80馬力の神戸赤で、当時「神戸赤」と言えば日本一綺麗で調子が良いと全国的に知られた優秀な焼玉エンジンであった。

機関室はいつも綺麗で、見習いとして機関室に入り、いろいろ教えられたが、それまで見たこともない機械だと思った。

そのうえパイプ類が多くあって、それを全部覚えるのかと思うと大変だと吃驚したが、機関長は「そのうち分かるようになる」と言ってくれて、油を注すことから教えてくれた。

その頃の日本は、(中国大陸での)支那事変が始まって何も知らぬままに大変な時代に時代に入っていたのであったが、そんな事など知らないままに、船員になって、社会人として、国の為に、いつしか働く事になっていたのである。

当時の宇部は、炭鉱やセメント工場のほかに曹達会社や窒素工場、そして石油の工場等が立ち並ぶ工業地帯であった。

その宇部港が私の長い人生の出発点となったと言ってもよいかもしれない。

船員となって 3 ~おちょろ舟~

2010年05月21日 | 人生航海
昔から船乗りと言えば、港々に女ありとか言われて、飲む・打つ・買うの三拍子揃った道楽者だと一般の人達に言われたりした。

または、天下の三方・・舟方、土方、馬方・・と悪の代表の如く世間から思われて、その為に船乗りの評判は悪かったのである。

その頃の日本には、まだ遊郭という公娼制度が存在していた。

何処の街でも賑やかな色街があり、遊郭が栄えた時代であった。

とりわけ港町の遊郭は、規模も大きく豪華な建物が並び大勢の女郎達で大変賑わっていた。

既に、今では殆どの人は忘れて、遠い過去の如くに思う者も多く、今頃こんな話をすると、女性からお叱りを受けるだろうが・・書き残しておく。

日暮れの港町は賑やかさを増し、夜の戸張りが降りる頃には、海の男たちは一杯機嫌の勢いで上陸をして冷やかし半分で自然と遊郭や飲み屋の方角に足が向かったのである。

津久見や宇部もそうだった。

また、その航路の途中、国東半島の先端に熊毛港という小さな港があり、その港から女たちが舟に乗ってくるのである・・おちょろ舟というのがあった。

海が荒れて時化の時には、港は機帆船でいっぱいになるので、女の数が足りなくなり、そんな時は、船員たちの争いもあった。

海上穏やかな時は一隻の船もいないが、時化ともなれば、あの港は、俄かに上り下りの船が避難して瞬く間に活気づいた。

私の乗った船も入港すると同時に、いつの間にか馴染みの女たちが乗り込んで、飲み支度が始まり・・それからの私は、遅くまで彼女たちに上手に使われることになった。

なかには、そんな私を同情したのか、可哀想だと思ったのか・・親切な女もいて、「あの店に行って、あたしの名で何でも買ってきて幾ら食べてもいいから・・船の人達には内緒だよ」と言ってくれた。

その時は、嫌な気もせずに嬉しく思っていた。

熊毛港には、7~8軒ぐらい女郎屋があって、松の屋、寿屋、沖の家、と言うような屋号があって、女の数は全部で50人ぐらいだと聞いた。

その頃の機帆船には風呂が無いので、馴染みの女がいる家に行って風呂に入れて貰う事になるが、いつの日か、親切だった女が出てきて私に「一緒に風呂に入ろう」と言った。

そして、服を脱がされかけて、船の皆からも「一緒に入れ」と言われて、恥ずかしかったが、二人で風呂に入ることになった。

あの優しい女も、たぶん田舎から家庭の事情で身売りされて来たらしく、私を見て同じ境遇かと思っての親切であったよう気がする。

思うに、17~18歳ぐらいの娘盛りであったと思うが、子供の私の眼には美しい綺麗な女性だとしか思えなかった。

寂しい思いも多かったなかでの、過ぎし若き日の懐かしい出来事の一つであった。

そのうち、船員生活にも慣れ、1年が過ぎた頃、船長が、私の給料を10円から12円に上げると言ってくれた。

嬉しくて、早速郷里の実家に手紙を出して、親の喜ぶ顔を思うと・・これからも真面目に働いて、少しでも多く仕送りする事が何よりの親孝行で、私の生き甲斐だと信じていた。

そんな純粋な気持ちで、辛い仕事も我慢が出来たのである。

家族のことを思えば、どんなことでも気にせず辛抱する事が出来たのである。