ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

軍属時代 10 ~両親の死~

2010年05月31日 | 人生航海
遠い異国で働いているのに心配させてはと悪い・・と知らせずにいたのだろう。

父が昭和13年12月28日に46歳で亡くなり、母も翌年昭和14年7月19日に43歳で亡くなったと・・詳しく手紙に書いて知らせてきたのであった。

その事を知ると、私は、「子供を遠い国まで行かせて、苦労をさせて済まぬ」と想いながら死んで逝った両親の気持ちを憚った。

親孝行も十分出来ないままなのに、申し訳けない想いが先に立ち、幼い頃を思い出しては・・その夜は、悲しくて、涙があふれて、一晩中泣き明かした。

皆からの同情と厚意もあり、いつまでも悲しんではおれず、「諦めねば」と自分の心に言い聞かせたのである。

軍属時代 9 ~手旗信号~

2010年05月31日 | 人生航海
憲兵伍長は、別れ際に「元気で頑張れよ」と帰って行ったが、何だか後味の悪い思いであった。

その後、多くの邦人たちが賭博犯で罰せられて、日本へ強制的に不良送還させられた。

それ以後は、何事も厳しくなって休みの日でも、碁と将棋の他は全て禁じられた。

そんな時、通信兵から手旗信号を教わることになった。

若い船員たちは皆習うことになり、私も一緒に教わることになった。

本格的に始めて1ヶ月も経つと大体は覚えて、停泊場からの簡単な用件は手旗信号で伝えてくるまでになった。

それから、各船宛てに手旗で伝達ができるようになったのである。

手旗は、画くよりも読むのが難しくて、完全に読めるようになるまでには、相当な経験が必要だった。

此処で手旗を覚えたお陰で、あとあとになって役立つことになるとは、あの時は夢にも思わなかった。

そんな日々が続いていた頃に、突然家の方から手紙が届いた。

軍属時代 8 ~大石主悦~

2010年05月31日 | 人生航海
そして、何日か過ぎた頃、私のほかに何人かが憲兵隊に呼び出された。

恐るおそると皆について行ったが、入り口で、憲兵が、私に「お前は日本人か?」と聞かれた。

「はい」と答えると、「名前は?」と言うので、「藤本です」と答える。

その憲兵は何か納得出来ない様子で、何も言わずに奥の上官室に私だけを連れて行ったのである。

そこは立派な部屋で、中には上官の憲兵曹長がいた。

私を見るなり「お前は、まだ子供のように見えるが、歳はいくつだ?何をしに此処に来たのか?」と聞いた。

さらに「お前も賭博をしたのか?」と聞かれた。

「はぁ?」と首を傾けると、賭博の意味が分からないと思ったのか・・「博打だよ!」と言った。

その後、「いくら勝ったのか?」と問われた。

「私は、勝ったり負けたりはしません」と言って、頭を下げて「すみません!」と礼をした。

あの時の憲兵曹長の説教が忘れられない。

「おまえは、15歳らしいが、忠臣蔵の大石主悦を知っているか? その主悦もおまえと同じ齢の15歳で、主君の恨みを晴らして本懐を遂げて切腹した事を・・。おまえも知っているだろう。おまえには、その勇気があるか? 賭博は罪になる事ぐらいは分かると思うが、今後は真面目に働いて、絶対にしないように」・・と諭された。

他にも色々と説教された。

「これを内地の親が知ったら、どう思うか?遠い異国で国の為に働いていると思っているのに、両親に申し訳けないと思わないか?・・それが分かったら帰ってよい。等々」と言われて憲兵伍長を呼んだのである。

そして、憲兵伍長に「なぜ、あんな子供まで連れてきたのか?心配せぬように、よく言い聞かせて、車で停泊船まで送って行くように」という大きな声が、部屋の外まで聞こえた。

憲兵伍長は、苦笑しながら、私を停泊場の船まで見送ってくれたのである。