ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

軍属時代 2 ~九江~

2010年05月24日 | 人生航海
そして、揚子江沿岸に点在する鎮江、南京、蕪湖、安慶という主要な都市に寄港しながら、目的地の九江に向かった。

なかでも、かつての首都でもあった南京に停泊した折、既に陥落した後であっても、何故か・・嫌な気分で夜空に浮かぶ薄明りさえ虚しく感じた。

あの痛ましい虐殺事件を聞くと・・生まれて初めて知る戦争の匂いだった。

その後、安慶にも寄港したが、やはり幾分は戦争の匂いを感じたのである。

そんな戦争の匂いを嗅ぎながら嫌な気分で、最終港の九江にようやく到着したのである。

九江は、番陽湖の近くで、櫨山の麓にある。

(櫨山に関する中国の故事から参考までに:
呉の国の櫨山(江西省北部揚子江岸、九江の南部)に董奉(とうほう)という名医がいた。
貧しい患者からは治療費を取る代わりに軽い患者には杏(アンズ)の木を1株、重い患者には五株の杏を植えさせ林にさせた。このことから医者のことを杏林と言うようになった。この故事にちなみ医学関係では杏林大学、薬品関係では杏林薬品株式会社が、この杏林の名を冠している。)

近郷の農産物の他に、さまざまな産業の集散地で人口も多く、軍事的にも重要な地点であった。

そのために、九江にも日本の停泊場部隊が置かれていた。

停泊場部隊は、物質の輸送のため船舶に関する業務を扱う部隊であり、九江は、私たちのベース基地として、その指揮下に入ったのである。

到着早々、船体の横に、陸軍運輸部のマークとともに、大きく黒字で「キー162」と書かれた。

その番号「キー162」が、船名として使用されたのである。

その後、各船は、近辺の前線部隊に向けて軍需物資の輸送のため当分多忙が続くことになるのであった。

そして、如何に戦争とは云えども・・前線部隊のある地域は無論のこと、九江もまだ戦争の名残がどこでも見られて、毎日のように支那(中国)兵の死体が流れていた。

あれ程に哀れに思ったことは無く、生まれて初めて知る哀れな経験だった。

が、初めて戦争の悲劇を・・子供だった私が、自分の目で見て、今だから言えるかもしれない。

人間とは不思議なものであり、あれ程に哀れさを感じても、その反面、戦争だと思うと、闘争心に燃えて、国の為、ただ一途になるのだった。

日本の勝利以外・・考えなかったのである。