今日から十一月(11.1)。
NHkの朝ドラマ「カーネション」は、面白い。
昭和初期、大阪岸和田を舞台にした和服の着物から洋服に変わる時代背景もそうだが、人物像がいい。
家庭内での喧嘩、罵り合い・・それでも「人生、やるきゃない」という構えがいい。
父から聞いたエピソードがある。
昭和初期、父が、百島から大阪の小学校へ入学した時、独り自分だけが着物姿で、皆、洋服姿だったとか!
数年後、大阪から百島に帰った時、今度は独りだけ洋服姿で、他全員が着物姿だったとか・・。
そんな逸話を持つ父も亡くなって、四年近くなる。
昭和40年(1965年)冬、三男である小生が九歳の誕生日の日・・新しい家に引っ越しをした。
今尚、現在に至る百島の実家となる我が家である。
当時としては、小さいながらも2階にバルコニーをつけたモダンな家であった。
ただ、屋根が日本瓦ではなく洋式瓦の茶色ぽっいオレンジ色が混じったものであった。
子ども心に違和感があったが、父が自ら設計してバルコニーを付けて、好みの屋根の色にしたのである。
父の意図的な好みを理解できたのは、ずっとあとになって、小生がヨーロッパで暮らした時だった。
オランダに行くと、「なるほど!」という想いが湧いた。
オレンジ色は、オランダのナショナルカラーである。
戦時中、父が居たジャワ島は、オランダの植民地だった。
道路はどこまでも舗装されていてオレンジ色屋根のバルコニー付きの家がたくさんあったという。
父は、ジャワ島で暮らしたオランダ風の「家」に憧れていたんだと・・。
父は、船乗りだった。
だが、自伝ノートには、航海中の回顧よりも接岸時の荷役作業の回顧の方に重きを置いている。
船倉内の荷役作業が辛いのではなく、その作業の段取り、内容を楽しく重視している傾向があった。
どういう風に表現していいのか・・昔の貨物船の船倉のハッチは、二人一組の人力でかなりの枚数の長板をはめてゆくのである。
船倉の底に落ちると危ないのだが、見る側としてはテキパキとする作業も頼もしく映り、実際、個人的には楽しい作業であったという思い出がある。
船乗りの利点として、日本各地で石やら植木を買い求めては、庭作りに精を出していた。
船乗りという日常から脱出して、自らの世界を楽しんでいたのであろう。
時には、鳩小屋も犬小屋も作っていたかな。
自分で設計して、材料のセメント、レンガ、タイルも自分で選んで買ってきた。
自ら、大工になったり、左官になったりする父親だった。
自分で掘り進めて、池も作り、鯉も飼っていたりする。
初孫ができた時には、池の半分を孫の赤ちゃん用プールに黙々と作り変えた時には、さすがに驚いた。
当時、赤ちゃん用プールに入って、男ばかり親子で酒を飲んだ思い出がある。
すべて、人任せが嫌だった父親だったのかもしれない。
その初孫も結婚して、息子を持つ親になった。
時は、流れてゆくのみである。
「人生、やるきゃない!」
NHkの朝ドラマ「カーネション」は、面白い。
昭和初期、大阪岸和田を舞台にした和服の着物から洋服に変わる時代背景もそうだが、人物像がいい。
家庭内での喧嘩、罵り合い・・それでも「人生、やるきゃない」という構えがいい。
父から聞いたエピソードがある。
昭和初期、父が、百島から大阪の小学校へ入学した時、独り自分だけが着物姿で、皆、洋服姿だったとか!
数年後、大阪から百島に帰った時、今度は独りだけ洋服姿で、他全員が着物姿だったとか・・。
そんな逸話を持つ父も亡くなって、四年近くなる。
昭和40年(1965年)冬、三男である小生が九歳の誕生日の日・・新しい家に引っ越しをした。
今尚、現在に至る百島の実家となる我が家である。
当時としては、小さいながらも2階にバルコニーをつけたモダンな家であった。
ただ、屋根が日本瓦ではなく洋式瓦の茶色ぽっいオレンジ色が混じったものであった。
子ども心に違和感があったが、父が自ら設計してバルコニーを付けて、好みの屋根の色にしたのである。
父の意図的な好みを理解できたのは、ずっとあとになって、小生がヨーロッパで暮らした時だった。
オランダに行くと、「なるほど!」という想いが湧いた。
オレンジ色は、オランダのナショナルカラーである。
戦時中、父が居たジャワ島は、オランダの植民地だった。
道路はどこまでも舗装されていてオレンジ色屋根のバルコニー付きの家がたくさんあったという。
父は、ジャワ島で暮らしたオランダ風の「家」に憧れていたんだと・・。
父は、船乗りだった。
だが、自伝ノートには、航海中の回顧よりも接岸時の荷役作業の回顧の方に重きを置いている。
船倉内の荷役作業が辛いのではなく、その作業の段取り、内容を楽しく重視している傾向があった。
どういう風に表現していいのか・・昔の貨物船の船倉のハッチは、二人一組の人力でかなりの枚数の長板をはめてゆくのである。
船倉の底に落ちると危ないのだが、見る側としてはテキパキとする作業も頼もしく映り、実際、個人的には楽しい作業であったという思い出がある。
船乗りの利点として、日本各地で石やら植木を買い求めては、庭作りに精を出していた。
船乗りという日常から脱出して、自らの世界を楽しんでいたのであろう。
時には、鳩小屋も犬小屋も作っていたかな。
自分で設計して、材料のセメント、レンガ、タイルも自分で選んで買ってきた。
自ら、大工になったり、左官になったりする父親だった。
自分で掘り進めて、池も作り、鯉も飼っていたりする。
初孫ができた時には、池の半分を孫の赤ちゃん用プールに黙々と作り変えた時には、さすがに驚いた。
当時、赤ちゃん用プールに入って、男ばかり親子で酒を飲んだ思い出がある。
すべて、人任せが嫌だった父親だったのかもしれない。
その初孫も結婚して、息子を持つ親になった。
時は、流れてゆくのみである。
「人生、やるきゃない!」