ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

裸の島

2012年05月31日 | 百伝。
百歳になったばかりの新藤兼人映画監督が、亡くなられました。

百島にも何度か足を運ばれて訪問しているはずです。

新藤監督は、映画界の仕事に入るまえに、若い頃、尾道で暮らしていたこともあります。

尾道で警察官をしていた兄を頼って来られたようです。

近隣の島々へ、自転車の部品を届けたり、修理、売買の仕事をしていたようです。

その後、映画人になった新藤監督は、百島での島の生活を描いたドキュメントタッチの映画を撮っているとの事。

監督として? 本当かな?

僕は、撮影をしていた頃の記憶はありません。

僕が、この映画を観たのは、ずっとあとの小学生の頃でした。

祖母、親類の禎子姉ちゃん、やすこ姉ちゃんが、天秤棒で水を担いで、段々畑を上るシーンがあります。

詳しい事は、知りませんが・・ただただ、とても残念なことは、百島の生活食卓シーン(兄が出演)が思惑以上に豊かであって、もっともっと貧しい食卓、生活をイメージした映像への思惑とかけ離れていたようです。

東京でのプレゼン試写会で、お蔵入りが決まったようです。

・・詳しい事は、分りません。

百島は、「裸の島」のモデルには、なれなかったのが事実です。

新藤監督のモスクワ映画祭グランプリ受賞の出世作「裸の島」を初めて観たのは、広島市に居た頃でした。

たまたま、英国から帰国して次の渡英までの約二ヵ月間、広島市に居る兄のお店(画房)で留守番をしていました。

毎朝、己斐から平和公園の原爆ドームまでジョッギングをしていました。

その時、知り合った方は、お店のお客さんでもあり、広島郊外の石内の方でした。

同じく、新藤監督も広島の石内出身なのです。

その方から、引っ越しを手伝って欲しいと言われて、石内まで行ったこともあります。

その縁で、新藤監督に興味を持つようになり「裸の島」を観ました。

台詞の無い圧倒的な「貧困の中での生きる力強さ」を描いています。

乙羽信子さんも、天秤棒で水を担いで、段々畑を上がっています。

プロの演技です。

それに較べて、子供の頃に観た百島の映像シーンは、アマチュアのような、のんびりした記憶があります。

・・ほんとうに、同じく新藤監督が撮ったものか?

百島は、「赤裸々の島」ではないのです。

「豊かな島」だったのです。

新藤兼人監督のご冥福をお祈りします。合掌