人生に寄り道やら通回りをしていない人の考えは、どうも理解しかねることが多々とあります。
昨日の厚生労働省の社会保障対策の具体案・・いわゆる、2025年問題以降に生じる大都市での高齢者増加問題に対する検討会内容。
もう20年昔からの日本の緊急課題なのに、やっと重い腰を上げたような印象を持ちます。
杉並区の先行事例を示していましたが、地価が高い、用地取得の難しい「都会の事情」で、杉並区が所有する150KM以上離れた静岡県の南伊豆町に特養施設を整備を検討しているとか・・?
小生、元杉並区民として述べさせていただくと、理解し難い「愚の骨頂」ではないかと思います。
杉並区の高齢者が、なぜ南伊豆で終の生涯を閉じなければならないのでしょうか?
受け入れる施設が足りないから、地方にある杉並区所有地で整備するというのは、行政マンの視線で捉える思考論理でしかありません。
例えば、尾道の高齢者の親を、高知県の足摺岬あたりの施設に預けるようなものです。
それ以前に、その施設で働く介護職員の確保が、出来ますか?
この頃の日本・・アベノミクスとかという造語もできて勢いづいて見えますが、民主党政権時代と比較してのことでしょうか?
あるいは、バブル崩壊後の「失われた20年」を比較してのことでしょうか?
安部さん、嫌いではありませんが、首相としての「強いリーダー」を意識しすぎです。
「世界で勝つ人材を!」・・と掲げます。
「♪あの素晴らしい愛をもう一度」を歌う安部さん・・。
・・これからは、「グローバル化に通用する人材育成時代」だと強調します。
このスローガンは、安部さんも学生だった時代、既に、30年以上昔の高度経済成長期の学生の間で「日本人が国際人として」という標語で一世風靡したものです。
その結果が、「ゆとり教育」に落ち着いたのです。
そして、「ゆとり教育」の否定のあとに、再び「グローバル化教育の台頭」。
英語をコミュニケーションとして稼ぐ生活も、勿論面白く愉快な時間、一生懸命な時代です。
しかるに、ギャップ・イヤーを体験した者ならば、「ローカルに役立つ人材育成」が基本教育であることを認識しています。
高齢者になれば、安心して生涯を終える孤独ではない「ゆとり」と「楽しさ」を求めます。
優しい人間に囲まれた、優しい場所を求めるものなのです。
極楽往生とは、家族、友人、善人が、幸せになるのを見届ける生き方だと思います。
それが、ギャップ・イヤーという「道草教育」なのでしょう。
道草を食うのは、昔ならば、馬であり、牛であり・・自分の乗り物でした。
現代に譬えるならば、車であり、自分の足跡です。
昨日の厚生労働省の社会保障対策の具体案・・いわゆる、2025年問題以降に生じる大都市での高齢者増加問題に対する検討会内容。
もう20年昔からの日本の緊急課題なのに、やっと重い腰を上げたような印象を持ちます。
杉並区の先行事例を示していましたが、地価が高い、用地取得の難しい「都会の事情」で、杉並区が所有する150KM以上離れた静岡県の南伊豆町に特養施設を整備を検討しているとか・・?
小生、元杉並区民として述べさせていただくと、理解し難い「愚の骨頂」ではないかと思います。
杉並区の高齢者が、なぜ南伊豆で終の生涯を閉じなければならないのでしょうか?
受け入れる施設が足りないから、地方にある杉並区所有地で整備するというのは、行政マンの視線で捉える思考論理でしかありません。
例えば、尾道の高齢者の親を、高知県の足摺岬あたりの施設に預けるようなものです。
それ以前に、その施設で働く介護職員の確保が、出来ますか?
この頃の日本・・アベノミクスとかという造語もできて勢いづいて見えますが、民主党政権時代と比較してのことでしょうか?
あるいは、バブル崩壊後の「失われた20年」を比較してのことでしょうか?
安部さん、嫌いではありませんが、首相としての「強いリーダー」を意識しすぎです。
「世界で勝つ人材を!」・・と掲げます。
「♪あの素晴らしい愛をもう一度」を歌う安部さん・・。
・・これからは、「グローバル化に通用する人材育成時代」だと強調します。
このスローガンは、安部さんも学生だった時代、既に、30年以上昔の高度経済成長期の学生の間で「日本人が国際人として」という標語で一世風靡したものです。
その結果が、「ゆとり教育」に落ち着いたのです。
そして、「ゆとり教育」の否定のあとに、再び「グローバル化教育の台頭」。
英語をコミュニケーションとして稼ぐ生活も、勿論面白く愉快な時間、一生懸命な時代です。
しかるに、ギャップ・イヤーを体験した者ならば、「ローカルに役立つ人材育成」が基本教育であることを認識しています。
高齢者になれば、安心して生涯を終える孤独ではない「ゆとり」と「楽しさ」を求めます。
優しい人間に囲まれた、優しい場所を求めるものなのです。
極楽往生とは、家族、友人、善人が、幸せになるのを見届ける生き方だと思います。
それが、ギャップ・イヤーという「道草教育」なのでしょう。
道草を食うのは、昔ならば、馬であり、牛であり・・自分の乗り物でした。
現代に譬えるならば、車であり、自分の足跡です。