中高年の引きこもりが、大きな社会問題となりつつあります。
今朝の新聞のトップ記事に驚かされたこと。
金融庁が老後資金で「自助」呼び掛け、年金の不足分補填を呼びかけているとの記事。
全くふざけた政府機関のコメントです。
老後を安心させるのが、政治、役所の役割、国民幸福への国家指針でしょう。
日本の政治体制、役所、公務員は、こんなにレベルが低いのかな?
こんな日本に住みたくないという気持ちになります。
あえて言うのであれば、「高齢者はすべて引きこもり予備軍」なのです。
今年から、療養型病院から高齢者居住施設に転職して、最近ふと思うこと。
最低限、自分で歩いてトイレで用を足して、食べれる身体機能があるまでが、健康寿命です。
施設内の個室生活は、自由度が高いようでも、かなり孤独感を強いられます。
「認知症」「身体機能レベル」との終わりない不安の日々が延々に続く個室生活を想像してください。
東北地方、中国地方から来られて生活されている高齢者がいますが、自宅での在宅介護ができないのが日本の家庭現状なのです。
数か月前から手足がむくんで入院せず、通院治療していた方が、当日の朝まで施設内で食事して、その夕方に亡くなった方がいました。
病院で延命治療をされるよりも、施設での生活の継続の中で、あっという間に逝く方がいいのかな?
・・・幸せかな?
病院も施設も、空きベッド、空き部屋があると、すぐさま新しい高齢者が入って来ます。
昭和のヒトケタ生まれの方から昭和10年代生まれの方が増えて、まもなく昭和20年代生まれの方が主流となる高齢者の世代交代の時代に入りました。
端的に言えば、「終の住処」は、「高齢者の引きこもり」となり、早かれ遅かれ誰もがいつか行く場所への準備期間なのです。
一昨晩のNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」。
51歳の女性が、スイスで「安楽死」を選択するまでのご本人と家族の葛藤を描いていました。
その一方で、同じく50歳の女性が同様な病いによる「延命治療」を選択する対峙が、とても印象的でした。
50歳という思考意識はあるのに、身体は終末期の高齢者のように寝たきりで、胃瘻による栄養摂取、人工呼吸器を使用しての延命治療の是非の問いかけ以上に、生きがい、もしくは、生きやすさ、その「生きる意味合い」を提示されたような面持ちでした。
点滴による安楽死、注入後30秒ほどで「命の終わり」をテレビ画像で見終えたあとに、「みんな、ありがとう」の最後の言葉が耳に残りました。
まさしく、「命の声」でした。
「命の声」が、殺人、自殺になってはならないのです。