ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

麒麟。

2019年06月13日 | 百伝。

今日6月13日は、明智光秀公の命日。

今日は、福井市郊外にある東大味町という田園地帯まで出かけて参りました。

そう、今日は、明智神社で行われた法要に参加させていただきました。

ひょっとすると、日本一小さな神社かもしれません。

実際は神社と言えども、「祠(ほこら)」という方が正しいのかもしれません。

ただ、この明智神社、今、とても注目を浴びています。

来年のNHK大河ドラマは、織田信長を討ち果たした明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」とのこと。

光秀は、美濃の国(岐阜)から家族連れて、越前の国(福井)に逃れ、朝倉家に仕えました。

この明智神社が、かつての光秀の居住跡とされる場所で、ここで約10年ほど暮らしたと言われています。

娘、のちの細川ガラシャも、ここで生まれたようです。

その後の明智家の波乱の生涯は、歴史上、周知の通りです。

室町幕府最後の将軍となる足利義昭が、越前朝倉義景を頼り上洛を期待するものの朝倉は動かない、そこで明智光秀の存在、動きが大きくなります。

足利義昭と上洛を助ける織田信長の両家の家臣となります。

光秀一家がこの地を去ったあと、織田信長勢の一向一揆の討伐で越前武生界隈の焼き討ちを知り、この地域の安全を保障する安堵状を柴田勝家に頼んで出したというのです。

だから、織田信長が一乗谷の朝倉を攻め滅ぼした時にも、この地域は安全を保たれたとのこと。

信長の直臣となった明智光秀は、その後、本能寺の変で、織田信長を討ち果たして、三日天下とも、天下の裏切り者、謀反人とも呼ばれてしまいます。

ただ、この地域の農家は、助けてくれた恩を「あけったぁま」として、光秀の小さな木像をご本尊として400年以上秘かに守ったとのこと。

これが明らかになったのは、武家支配の江戸時代が終わったあと、明治19年とのことでした。

おそらく、日本一小さく幸せな神社のひとつかもしれません

・・・個人的な感想です。

明智光秀一家が、いちばん幸せに暮らした時期は、この越前の田園生活だったのではないかと思い耽ってしまいました。

付け加えると、明智光秀と柴田勝家は、友好的な友情のような関係があり、だから本能寺の変のあと、柴田勝家は意図的に動かなったのでは? と考えてしまいます。

因みに、日本一小さな寺は、近江の大津にある同じく三日天下と呼ばれた木曽源義仲、その隣りに松尾芭蕉が眠る「義仲寺」かもしれません。

源義仲が旗を挙げた地、木曽の百島を思い浮かべました。

空想上の獣である麒麟。

優しく殺生を嫌う霊獣とされています。


法要での和尚さんの説法にも感謝。

地元、東大味の皆さんのおもてなしに感激しました。