東京おもちゃ美術館館長の多田千尋氏の東京散歩が実に楽しいです。
多田千尋氏の生まれ育ったのは新宿区、百年昔を遡れば、百島がルーツとなります。
今回、多田氏による「百人町」散策を、このブログにも紹介させていただきます。
ましてや、「百」がつく地名です❗
百人町は、徳川将軍を警護するために伊賀鉄砲隊百人が大久保村に暮らしたことが地名の由来になっているとのこと。
伊賀鉄砲隊は時間がある時にはツツジを栽培していて、それが由来となり、「新宿区の花」は、ツツジだとのこと。
百人町は、世界一の乗降客を誇る新宿駅の間近にあるが、65歳以上の高齢者が50%を超える限界集落となる共存エリアもあるとか。
日本一の繁華街歌舞伎町とは、目と鼻の先にある百人町の未来・・・新宿区を故郷とする多田氏にとって、逆に、限界集落の百島はどう映るのかな?
余談になりますが、個人的な思い出です。
学生時代に百人町にほど近い大久保駅の近くに暮らす朝鮮系クラスメートがいました。
彼の実家は焼き肉屋で、アルバイトに来ないかとよく誘われました。
当時から、大久保界隈はコリアタウンとか呼ばれていたのかな?
僕個人の記憶ですが、あの界隈は、朝鮮系も中国人も、とても縁起の良い「百」のつく百人町があるから移り住むのだろうと考えていました。
さて、新宿区百人町。
伊賀組百人鉄砲隊。
それに関連して、百人衆の事。
戦国の世の倣い、百々一族の祖となる四国伊予の国河野一族は、土佐の長宗我部一族との四国の覇権争いに敗れて、支配下の立場になります。
その後、豊臣秀吉の時代になると、瀬戸内海の覇権代理戦争の犠牲となり河野一族は小早川一族に滅ばされます。
徳川の時代になると、土佐から長宗我部一族は追放されて、新たな大名は山内一豊に代わります。
山内一豊は、今で言うと百々越前守をスカウトします。
土佐藩山内家の家老に抜擢されて、百々越前守は、穴太衆を引き連れ高知城を築城します。
近江の国の地縁コネクションです。
因みにその際、長宗我部の家臣を百人衆郷士(下級藩士)として集めて開墾させます。
百人衆の語源です。
その土佐百人衆郷士こそが、約250年後の幕末の志士、坂本龍馬の祖となるのです。
そして、当時、最後の土佐藩主は山内容堂、土佐藩大目付、参政だった吉田東洋は、百々一族なのです。
新宿区百人町から、話が飛びました。