最初に、タイトルの武家百代記の「百」は、万(よろず)の百島を意味している事に気がつきました。
さて、俳優でもあり、武道にも通じる藤岡弘、さん・・・・個人的にも好きなタレントです。
藤岡さんの出身地は愛媛県松山市、ルーツは松山市沖に浮かぶ忽那諸島。
伊予の河野水軍の中心部隊である忽那水軍を誇りにしているとの事。
その後の瀬戸内海の水軍歴史は、村上水軍へと集約して、村上三島(因島、来島、能島)へと分散します。
村上宗家であり総大将となるのが、能島村上水軍です。
瀬戸内海水軍史を学ぶと、愛媛県側の史料が実に素晴らしいのです。
分家としての海上位置、百島村上水軍の存在意義も深く理解出来ました。
愛媛県全体が村上水軍(能島、来島)をバッグアップしているかのような史料の明快さがあります。
それに較べて、広島県側の史料は、主に因島村上水軍を中心とした備後の地域性、毛利、小早川家からの視点で記録のみで想像性が欠けています。
能島村上水軍としては、毛利側についた因島村上水軍の勢力拡大が面白くなかったのかもしれません。
初めは因島村上水軍の統轄地であった百島、田島、鞆の浦を、能島村上水軍は奪い取る策を謀ったのでしょう。
まず百島村上と田島村上の連合軍を、因島村上へと攻撃を仕掛けます。
戦場になった場所は、今の因島大浜で千人塚として名が残っています。
しかし、このクーデタ―は失敗に終わり、田島村上軍の大将は戦死、百島村上軍の大将村上吉高は、百島に逃げ帰り、軍殿山で自刃。
ところが、因島村上軍の勝利で終わったあとの、その後は不可解です。
このクーデターは、村上宗家である能島村上が、裏で糸を引いていたとしか思えません。
その策略としては、大成功だったかもしれません。
毛利、小早川家は、他家の内紛事として穏便に済ませています。
百島村上は存続、自刃した吉高の嫡子村上高吉が継いでいます。
一方、鞆の浦、田島村上は、能島村上水軍の支配下、統轄地になります。
さらに、能島村上水軍は、小早川家より笠岡の領地まで与えられています。
愛媛県側の史料を読み解くと、毛利、小早川側からすると、伊予の国の村上水軍を重要視しなければ、戦国時代に生き残れなかったのです。
毛利氏が歴史上に台頭した厳島合戦。
陶氏に奇跡的に勝利した要因は伊予の国の村上水軍の動静、活躍しかないのです。
毛利家側には、伊予の河野家、村上水軍に足を向けて寝られないぐらいの恩があるのです。
実際上、京、大坂から九州までの瀬戸内海の海上交通の最短ルートは、中継地の備後の国鞆の浦から、田島、横島の南側沿いの燧灘を通ると、直ぐ目の前が伊予の国の弓削島(平城京時代からの荘園)になります。
つまり、鞆と尾道ルートの備後圏を支配していた因島村上水軍の価値、必要性も無くなります。
収入源である通行税も減少します。
南北朝時代から、南朝を支えていた伊予の国の水軍。
室町時代、嘉吉の乱以後、戦国の世が終わるまで水軍は徐々に村上三島水軍として組織化され強大化され、瀬戸内海の覇者となりました。
能島村上水軍と因島村上水軍の覇権争いの中で、村上水軍全体を一番把握していたのが、百島村上軍の村上(喜兵衛)高吉だったようです。
村上(喜兵衛)高吉が居住していた百島茶臼山城を訪ねて、その暮らし、その眺めを見たいものです。
愛媛県の「えひめのデータベース」より抜粋。
村上喜兵衛(高吉)という人が書いた(口述)、『三島海賊家戦日記』というのがあります。略して『武家万代記』と言いますが、それらによりますと、三島村上氏に限らず、縄張りが皆記載されて、どこでいわゆる帆別銭を取るか、通行税である駄別料を取るかというようなことも規定されております。
百島は、その万の情報源の中心位置にあったのでしょう。
因みに、歴史によく登場する村上水軍全体の総大将である村上武吉と小早川隆景、そして村上(喜兵衛)高吉は、同い歳です。