赤松一門と京極一門、それぞれの一門での家督争い、内紛闘争は複雑ですが、赤松と京極は何かで繋がっているような気がします。
今日は、百と百々に関わるお話です。
滋賀県彦根市に佐和山城という歴史に名が残る山城がありました。
関ヶ原の戦い(1600年)で敗れた将、石田三成の居城です。
その後、徳川四天王のひとりである井伊直政が入城し、彦根城(現、国宝)を築いたため佐和山は廃城となりました。
その関ヶ原の戦いから約160年昔の嘉吉年間(1441年~44年)に、その佐和山の麓(小野庄)に伊予の国(愛媛県)の豪族(河野水軍)である百々盛通なる人物が移り住んだとのこと。
この百々盛通の母は、近江の守護大名京極家一族の娘という縁で、小野庄百々村を賜ったとのこと。
同じく嘉吉年間といえば、時の足利将軍を暗殺(嘉吉の乱)を引き起こした赤松一党が、百島へ逃げて来た時期と一致しています。
偶然か、必然か、逃れた島は、その後、百島と名付けられたのでは?と
さて、京極は、赤松、山名、一色と同じく、室町幕府四識・・・嘉吉の乱(1441年)のあと、京極宗家と赤松宗家は、何らかの密約があったのではないかと、個人的な想像を膨らませているのです。
河野水軍と村上水軍の結びつきは強く、嘉吉の乱の際に百島まで逃げ延びた赤松一党、その代わりに百々一党が、交換条件で瀬戸内海から琵琶湖のある近江の佐和山へ移り住んだ・・・この地域は、鎌倉時代から畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり 、百々一党は、応仁の乱には、摺針峠に置かれた関所を守ったという・・・河野水軍であれば、手慣れた任務だったかもしれません。
因みに、嘉吉の乱のあと、京の都では、応仁の乱が起こります。
その最大の戦場となった場所は、百々橋(上京区)です。
安土城にも百々橋口という登城ルートがあります。
ところで、その後、伊予から近江に移った百々一族の歴史は、京極、六角、浅井、信長、秀吉、徳川まで主君を変えながらも滅亡することもなく、戦国の世、覇権時代に翻弄されながらも生き延びて、現在まで引き継がれているのです。
この近江界隈(現在の滋賀県、三重県、奈良県の県境)には、伊賀一族、甲賀一族、柳生一族も蠢いていました。
その殺人集団に伍して、百々一族は、踏ん張らなければならなかったのか?
あるいは、百人衆という影響を与えたかもしれません。
もっと、百々一族に歴史にスポットライトをあてて注目されてもよいのでは?
歴史の詳細は省きますが、ひょっとすると、百田とか百瀬とか、百のつく姓、苗字のルーツは、百々がルーツになっているのではと、憶測するのです。
百々氏という名の源は、地名なのか、水の流れなのかどうか?・・・よく分かりません。
が、百島と名付けた人物は、百々一族の者ではないかとも考えます。
さらに、1548年(天文17)、京極秀綱の子として京極綱家なる人物が誕生。
この人物、近江の百々村に居を構えて、百々氏と名乗るようになりました。
京極家からも分家として、百々家へシフト。
百々綱家(越前守)なる人物、築城の名手、「穴太衆(あのうしゅう)」のような石工集団を率いていたとも言われています。
(「穴太衆(あのうしゅう)」のルーツは、6~7世紀頃、百済からの渡来人とも言われ、室町時代には近江の国で石組み技術に卓越していた石工集団の事。)
この百々越前守なる人物、織田信長から徳川家康の時代まで尋常ではない生き様です。
サバイバルのような不思議な生涯に感心します。
百々越前守、朝鮮出兵にも加わったとのこと。
(朝鮮出兵には、百島の村上高吉も小早川家臣として出兵。)
最後は山内一豊の家臣として、土佐に移り住んでいます。
高知には、越前町という地名が残っているとのこと。
因みに幕末の土佐藩参政吉田東洋は、百々越前守の子孫となります。
余談ですが、時代を遡れば、足利軍が、新田義貞を討つために越前まで河野水軍を使ったとのことで、その子孫は越前に移り住んだとのこと、実際、「河野村(現、南越前町)」というのが実在します。
つまり、室町時代初期には、近江(琵琶湖)の東国、北國への重要な関所には、すでに伊予の国の河野水軍を配置していたのではないかと考えるのです。
わが故郷、百島は、伊予の国から、備後の国へ抜ける最前線の地でもありました。
子供の頃、百島の十文字山の頂上の岩の中に、仏像があったということで、その仏像を調べると、滋賀県に関係があったということでした。
北近江には、百済寺があります。
百島の百は、百済の百とも関係があるんだとも聞いた記憶もあります。
当時、百々一族のことを知っておれば・・・という想いもあります。
この百々一族のルーツは瀬戸内海、興味深い百々の物語です。