今日は、七草粥を頂きました。
古来、中国では、この日を「人の日」として、犯罪者への刑罰を行わなかったとの事。
これが日本に伝わり、いつの間にか一年の無病息災を願う七草の節句になったとの事。
さて、人間誰だって、大なり小なり、苦労されていると思います。
おまけに、コロナ禍の時代。
それなりに働いて、いくらかの生業、商売でもしていれば、そりゃ、いかにも苦労している人間に関しては、よく分かるものです・・銀行は、相手にせず・・中小企業は、またまた休業、倒産、非正規労働者は失業が相次ぐようです。
苦労って、金の苦労、病気の苦労いろいろだけど、見るからに苦労人って、それが現実にいちばん向きあっている生き方なので、ホンマモンの人間なのかもしれません。
愛読書のひとつに、夏目漱石の「私の個人主義」があります。
現代でも、全く遜色のない「生き方」が語れています。
最近、作家の五木寛之さんと京セラ創業者、KDDI(auの最高顧問)でもある稲盛和夫さんの対談集「何のために生きるのか?」を読んでみました。
お二人は、九州男児の同年生まれ・・共に仏教道に深く心根ざす生き方を傾注されています。
釈迦の六波羅蜜の教えを絡ませて、生きている魂を磨いているようです。
お二人とも、最終的には「死への準備」を模索しながら生きてのでしょう。
最近、「生きがい」ならぬ「死にがい」という言葉も使われています。
生きがいのある街(がい)、死にがいのある街(がい)・・村や島ではないの?
このまま書き終えると、何だか中途半端な暗い気持ちになります。
去年末に亡くなった、瀬戸内寂聴さんの簡便な法話を以下に列挙します。
人間笑っていないと幸せがこない。
貧乏神も病気も、笑わない人が好き。
「自分は元気だ。幸せだ」この言葉で病気が逃げ出す。
子供の出来が悪い。
それはあんたの子だから出来が悪い。(笑)
そう思えば腹が立たない。
自分の幸せを考えているだけでは、本当の幸せではない。
私達は死ぬまで可能性がある。
死ぬまで自分を変革することができる。
死んだらどうなるかって、よく聞かれるけど、そんなことわからない。(笑)
いろいろ予定を立てたって、その通りにならないことが多い。
だから先のことをくよくよ思い煩うことない。
もう仏様に任せておけばいい。
とにかく「自分は元気だ」「自分は幸せ」とか・・そういうふうに「いい」風に考えましょう❗
さてさて、身の持ち物を整理処分していると、若い頃に買ったカセットテープが沢山出てきたけれども、ウォークマンはあるけれども、ラジカセが見つかりません。
ラジカセを買い求めて、大型電器店に足を運びました。
久しぶりに行くと、何か分からないけど、製品を見るだけなのに技術進歩から取り残されている感覚、浦島太郎になったような気分でした。
因みに、ヤマダ電機・・宣伝ではないけど、店内にカフェがあったり、過ごしやすかったのも事実です。
世の中の売り場を、もっと歩いてみようと考えました。