ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

尾崎 放哉 (1885~1926)

2022年04月07日 | 空木宝剣

放哉忌  漱石の門  カフカの門

歳時記によると、俳人尾崎放哉(本名秀雄)は、明治18年1月鳥取市立川町に生まれ、県立一中一高を経て、明治42年東大法学部卒。

東洋生命保険に入社、勤続10年後に、朝鮮火災海上保険の支配人として渡鮮。

大正12年、38歳にして保険会社を退職。

すべてを投げうち、妻とも離別。

無一物となり、托鉢による修養奉仕を旨とする、京都鹿ヶ谷の一灯園に、身を寄せるも落ち着けず。

諸所の寺を転々とした後、大正14年8月、ようやく小豆島の西光寺奥の院、南郷庵を安住の地として、孤絶無言、句三昧の生活を送る。

「咳をしてもひとり」「墓のうらに廻る」などの句を残すが、大正15年4月7日、喉頭結核の病状が悪化、逝去とある。

「末は博士か大将か」の時代背景に、立ち止まることを許されず、ここでもないと、漱石の門やカフカの門を前に、陽が暮れるのを恐れ、次々と門を叩き、やっと安住の門を開けたと思いきや、そこには、フランスの詩人ロンサール(1524~1585)の
「プルトンが住む岩屋」が待ち受けていた。

アンドレ・ジ イ ド(1869~1951)の「狭き門」を目指す若者。

若者には、目標はあってもゴールはない。

一つの門に踏み込めば、もっと厳しい狭き門。

「青春は過ぎ  若さが磨り減って」ふと振り向けばプルトンの使いに出くわし、安住の岩戸を開けたような、放哉41年間の生涯。

さくら舞い 散った先には 芝桜。