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100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百人一首 百番歌。

2020年10月25日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
百人一首、最後の百番目となる和歌は、百敷から始まります。

鎌倉時代初期、選者の藤原定家の面持ちを推し測ると、見事としか言い様がありません。

百番歌
百敷(ももしき)や古き軒端(のきば)のしのぶにも なほ余りある昔なりけり
(順徳院)

〈意味〉
百敷とは、宮中(大宮)を意味します。
宮中の古い軒端に忍ぶ草を見て、遠く華やかだった昔の往時を偲ぶ刹那さ。

作者の順徳院は、第84代の天皇です。
父親の後鳥羽院と朝廷復権を旗印に「鎌倉を討て」と承久の乱を起こしますが、鎌倉側の武士に敗れて、後鳥羽院は隠岐の島に、順徳院は佐渡島へと流刑の身となります。

平安貴族の権力の終焉でもあります。

政治の実権は鎌倉幕府へと変わり、幕府と朝廷の力関係に配慮して、当時は、後鳥羽院、順徳院親子が詠んだ和歌も封印されたとのこと。

にもかかわらず、政治的立場を超えて、藤原定家(京極中納言)は、優れた歌人百人の中に、九十九番目に後鳥羽院、百番目に順徳院、流刑された二人を選んでいます。

現代風に例えるならば、政治力学よりも芸術文化を優先させたのでしょうが、それよりも、人間としての定家は、敗者にも弱者にも、必死で生きた者に対して、平等な立場の選者でいます。

優越的な上から目線で嘲笑う事はしていません。

僕の個人的な興味視点に戻ります。

昔昔、百人一首で「百敷」という言葉を見ても、余り深く考えもしなかったのですが、この頃、「百」が付く各地の地名を調べたりしていると、近くに大宮神社とかも現れます。

「百」という文字には、古くから宮中(大宮)に関連した「まつりごと」の意味合いもある事が判ります。

でも、「百」には、桃太郎の「桃」のように、鬼を退治して、人様を助けるようなパワーがない❗

昔を偲ぶだけの「百」では、寂しくなります。

先日、普通救命士講座に参加しました。

人様を助けるのには、体力もハートの強さも必要です。

災難に遭うときには、災難に遭うのがよい、これが災難から逃れる唯一の妙法と言ったのは、良寛和尚さんでした。

人間は、この世に裸で生まれてきたから、何も所有していないとのこと。

だから、人生には、不要なものが多すぎて、その不要なものを、何故か人間は多く必要とします。

剣の達人になると、刀で人を殺すことはしなくなり、剣術を教え人を生かそうとするようです。

つまり、人目のつかないところで、よい行いをする事に繋がるのでしょう。

平安時代の貴族の言葉、文字の情感に、驚かされてしまう小倉百人一首です。

17番歌
ちはやぶる神代(かみよ)もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは
(在原業平)

99番歌
人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふ故にもの思ふ身は
(後鳥羽院)

百は、表意文字です。

文字、言葉は、素晴らしい❗

その時の気持ちが、何百年過ぎた後も、文字通り今に伝わって来ます。




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