ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百と百々(どど)一族。

2022年01月06日 | 日本の百々巡り。

赤松一門と京極一門、それぞれの一門での家督争い、内紛闘争は複雑ですが、赤松と京極は何かで繋がっているような気がします。

今日は、百と百々に関わるお話です。

滋賀県彦根市に佐和山城という歴史に名が残る山城がありました。

関ヶ原の戦い(1600年)で敗れた将、石田三成の居城です。

その後、徳川四天王のひとりである井伊直政が入城し、彦根城(現、国宝)を築いたため佐和山は廃城となりました。

その関ヶ原の戦いから約160年昔の嘉吉年間(1441年~44年)に、その佐和山の麓(小野庄)に伊予の国(愛媛県)の豪族(河野水軍)である百々盛通なる人物が移り住んだとのこと。

この百々盛通の母は、近江の守護大名京極家一族の娘という縁で、小野庄百々村を賜ったとのこと。

同じく嘉吉年間といえば、時の足利将軍を暗殺(嘉吉の乱)を引き起こした赤松一党が、百島へ逃げて来た時期と一致しています。

偶然か、必然か、逃れた島は、その後、百島と名付けられたのでは?と

さて、京極は、赤松、山名、一色と同じく、室町幕府四識・・・嘉吉の乱(1441年)のあと、京極宗家と赤松宗家は、何らかの密約があったのではないかと、個人的な想像を膨らませているのです。

河野水軍と村上水軍の結びつきは強く、嘉吉の乱の際に百島まで逃げ延びた赤松一党、その代わりに百々一党が、交換条件で瀬戸内海から琵琶湖のある近江の佐和山へ移り住んだ・・・この地域は、鎌倉時代から畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり 、百々一党は、応仁の乱には、摺針峠に置かれた関所を守ったという・・・河野水軍であれば、手慣れた任務だったかもしれません。

因みに、嘉吉の乱のあと、京の都では、応仁の乱が起こります。

その最大の戦場となった場所は、百々橋(上京区)です。

安土城にも百々橋口という登城ルートがあります。

ところで、その後、伊予から近江に移った百々一族の歴史は、京極、六角、浅井、信長、秀吉、徳川まで主君を変えながらも滅亡することもなく、戦国の世、覇権時代に翻弄されながらも生き延びて、現在まで引き継がれているのです。

この近江界隈(現在の滋賀県、三重県、奈良県の県境)には、伊賀一族、甲賀一族、柳生一族も蠢いていました。

その殺人集団に伍して、百々一族は、踏ん張らなければならなかったのか?

あるいは、百人衆という影響を与えたかもしれません。

もっと、百々一族に歴史にスポットライトをあてて注目されてもよいのでは?

歴史の詳細は省きますが、ひょっとすると、百田とか百瀬とか、百のつく姓、苗字のルーツは、百々がルーツになっているのではと、憶測するのです。

百々氏という名の源は、地名なのか、水の流れなのかどうか?・・・よく分かりません。

が、百島と名付けた人物は、百々一族の者ではないかとも考えます。

さらに、1548年(天文17)、京極秀綱の子として京極綱家なる人物が誕生。

この人物、近江の百々村に居を構えて、百々氏と名乗るようになりました。

京極家からも分家として、百々家へシフト。

百々綱家(越前守)なる人物、築城の名手、「穴太衆(あのうしゅう)」のような石工集団を率いていたとも言われています。

(「穴太衆(あのうしゅう)」のルーツは、6~7世紀頃、百済からの渡来人とも言われ、室町時代には近江の国で石組み技術に卓越していた石工集団の事。)

この百々越前守なる人物、織田信長から徳川家康の時代まで尋常ではない生き様です。

サバイバルのような不思議な生涯に感心します。

百々越前守、朝鮮出兵にも加わったとのこと。

(朝鮮出兵には、百島の村上高吉も小早川家臣として出兵。)

最後は山内一豊の家臣として、土佐に移り住んでいます。

高知には、越前町という地名が残っているとのこと。

因みに幕末の土佐藩参政吉田東洋は、百々越前守の子孫となります。

余談ですが、時代を遡れば、足利軍が、新田義貞を討つために越前まで河野水軍を使ったとのことで、その子孫は越前に移り住んだとのこと、実際、「河野村(現、南越前町)」というのが実在します。

つまり、室町時代初期には、近江(琵琶湖)の東国、北國への重要な関所には、すでに伊予の国の河野水軍を配置していたのではないかと考えるのです。

わが故郷、百島は、伊予の国から、備後の国へ抜ける最前線の地でもありました。

子供の頃、百島の十文字山の頂上の岩の中に、仏像があったということで、その仏像を調べると、滋賀県に関係があったということでした。

北近江には、百済寺があります。

百島の百は、百済の百とも関係があるんだとも聞いた記憶もあります。

当時、百々一族のことを知っておれば・・・という想いもあります。

この百々一族のルーツは瀬戸内海、興味深い百々の物語です。


武家百代記。

2022年01月05日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)

最初に、タイトルの武家百代記の「百」は、万(よろず)の百島を意味している事に気がつきました。

さて、俳優でもあり、武道にも通じる藤岡弘、さん・・・・個人的にも好きなタレントです。

藤岡さんの出身地は愛媛県松山市、ルーツは松山市沖に浮かぶ忽那諸島。

伊予の河野水軍の中心部隊である忽那水軍を誇りにしているとの事。

その後の瀬戸内海の水軍歴史は、村上水軍へと集約して、村上三島(因島、来島、能島)へと分散します。

村上宗家であり総大将となるのが、能島村上水軍です。

瀬戸内海水軍史を学ぶと、愛媛県側の史料が実に素晴らしいのです。

分家としての海上位置、百島村上水軍の存在意義も深く理解出来ました。

愛媛県全体が村上水軍(能島、来島)をバッグアップしているかのような史料の明快さがあります。

それに較べて、広島県側の史料は、主に因島村上水軍を中心とした備後の地域性、毛利、小早川家からの視点で記録のみで想像性が欠けています。

能島村上水軍としては、毛利側についた因島村上水軍の勢力拡大が面白くなかったのかもしれません。

初めは因島村上水軍の統轄地であった百島、田島、鞆の浦を、能島村上水軍は奪い取る策を謀ったのでしょう。

まず百島村上と田島村上の連合軍を、因島村上へと攻撃を仕掛けます。

戦場になった場所は、今の因島大浜で千人塚として名が残っています。

しかし、このクーデタ―は失敗に終わり、田島村上軍の大将は戦死、百島村上軍の大将村上吉高は、百島に逃げ帰り、軍殿山で自刃。

ところが、因島村上軍の勝利で終わったあとの、その後は不可解です。

このクーデターは、村上宗家である能島村上が、裏で糸を引いていたとしか思えません。

その策略としては、大成功だったかもしれません。

毛利、小早川家は、他家の内紛事として穏便に済ませています。

百島村上は存続、自刃した吉高の嫡子村上高吉が継いでいます。

一方、鞆の浦、田島村上は、能島村上水軍の支配下、統轄地になります。

さらに、能島村上水軍は、小早川家より笠岡の領地まで与えられています。

愛媛県側の史料を読み解くと、毛利、小早川側からすると、伊予の国の村上水軍を重要視しなければ、戦国時代に生き残れなかったのです。

毛利氏が歴史上に台頭した厳島合戦。

陶氏に奇跡的に勝利した要因は伊予の国の村上水軍の動静、活躍しかないのです。

毛利家側には、伊予の河野家、村上水軍に足を向けて寝られないぐらいの恩があるのです。

実際上、京、大坂から九州までの瀬戸内海の海上交通の最短ルートは、中継地の備後の国鞆の浦から、田島、横島の南側沿いの燧灘を通ると、直ぐ目の前が伊予の国の弓削島(平城京時代からの荘園)になります。

つまり、鞆と尾道ルートの備後圏を支配していた因島村上水軍の価値、必要性も無くなります。

収入源である通行税も減少します。

南北朝時代から、南朝を支えていた伊予の国の水軍。

室町時代、嘉吉の乱以後、戦国の世が終わるまで水軍は徐々に村上三島水軍として組織化され強大化され、瀬戸内海の覇者となりました。

能島村上水軍と因島村上水軍の覇権争いの中で、村上水軍全体を一番把握していたのが、百島村上軍の村上(喜兵衛)高吉だったようです。

村上(喜兵衛)高吉が居住していた百島茶臼山城を訪ねて、その暮らし、その眺めを見たいものです。

愛媛県の「えひめのデータベース」より抜粋。

村上喜兵衛(高吉)という人が書いた(口述)、『三島海賊家戦日記』というのがあります。略して『武家万代記』と言いますが、それらによりますと、三島村上氏に限らず、縄張りが皆記載されて、どこでいわゆる帆別銭を取るか、通行税である駄別料を取るかというようなことも規定されております。

百島は、その万の情報源の中心位置にあったのでしょう。

因みに、歴史によく登場する村上水軍全体の総大将である村上武吉と小早川隆景、そして村上(喜兵衛)高吉は、同い歳です。


笑いと涙と眠り。

2022年01月04日 | 易行難行修行

お正月は、今年のスタート。

正月三が日は、ずっと働いていました。

元旦の初仕事は、大正11年1月1日生まれの満百歳となった男性の起床のお手伝いでした。

百歳おめでとう❗

その贈る言葉に、車椅子の座り心地なのかな?

「自分でも驚くわぁ。もういくつ迎えられるかな、お正月。眠い。眠い。」という呟き。

お正月は高齢者の施設で、沢山歌って、御節食べて、書き初めをして過ごしました。

今日、正月四日。

今年初めての休日。

時々、雪まじりの氷雨が降っています。

自律神経によくない悪天候です。

小さなストレスだなぁ❗

ほんとうは、百島へ帰省したかったなぁ。

お墓参り、それから茶臼山城跡へのユックリ探検も。

百島でゆっくりと過ごしながら深呼吸できる時間。

百島帰省代わりに、映画マトリックスでも観に行くつもりです。

命の「生きる」という最大目的は、「眠る」ことかもしれません。

心と身体は、繋がっています。

誰もが、うつ、うつ病になる簡単な方法があるとの事。

毎日毎日、百回千回と「ため息」ばかり続けると、必ず鬱々状態となるようです。

つまり逆に、「笑う」と身体によいことがあるのは明らかです。

でも、ずっと、そう、「躁の状態」も困るけどね。

その一方で、笑うよりも、寝たり泣いた方が、よいこともあるようです。

とにかく、ストレスを放出排出する事が大切だとの事。

資本主義社会は、隠れたイジメ社会、奴隷制度と似たようなものだから、スピードアップ、効率化、利潤追求の世界は、自律神経も乱れて呼吸も浅くなります。

そんなストレス過重社会を避けないと、自分の健康寿命を縮めてしまいます。

小さなストレスを積み重ねると、大きなストレスとなります。

正直に言えば、高齢者ばかりの介護の施設現場に居ると、あまり長生きしたくないという気持ちになる事は、多々とあります。

ため息混じりに、幸せな余生だとは到底思えないのです。

ほぼ全員の高齢者が、愛情溢れる家族の中に戻りたいのです。

それが難しくなったのは、生活維持の為の経済効率優先の資本主義の弊害。

人生百年、百歳まで生きている高齢者は、ゆっくりと話す、ゆっくりと動く人が多いようにも映ります。

早く喋る高齢者、速く動く高齢者は、健康人生を過ごしているように映るけれども、案外と百寿まで届いてはないのです。

スポーツ選手の人生、寿命の例が、分かりやすいです。

命の脈拍の数は限りがあるというのは、昔からの逸話だと考えていましたが、案外正しい事実かもしれません。

長い生きしたいのならば、ゆっくり長い呼吸して、ゆっくりと脈々と生きる。

真逆に生きたいならば、「人生は興奮だ❗」です。

「この人生」をどう生きるかは、基本は身体。

体は、動く乗り物。

善い笑い、好い涙、良い眠りを日常生活の目標としましょう。

今年の初日の出を、まだ拝んでいません。

今年が、皆様のよりよい実り多い一年に成りますように。

踏ん張りましょう。