OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

コーラを飲んでバーズを聴くのもアメリカ気分

2012-06-11 14:55:51 | Byrds

コーラとアメリカ人 / The Byrds (Colubia / CBSソニー)

アメリカの文化に毒されて育ったサイケおやじにしても、コーラを初めて飲んだ時の違和感、あのミョウチキリンな味には、ど~しても馴染めませんでした。

まあ、これは現在でもあまり好きではないんで、本質的にはサイケおやじの体質と相容れないものがあるのかもしれませんが、それにしても子供時代は、こんなん飲んでるアメリカ人って!?!?

そういう気分が大勢を占めていましたですねぇ。

しかし確かにコーラはアメリカを代表する文化のひとつであるらしく、それはアメリカを揶揄する対象になっている事からも明確です。

例えば本日ご紹介のシングル曲「コーラとアメリカ人 / America's Great National Pastime」は、アメリカを代表するロックバンドであったバーズが、その末期の1971年に発表した名盤アルバム「ファーザー・アロング」に収録されていた、中ではちょいと浮いた感じのトラックだったんですが、逆に言えば風変わりなキャッチーさがある所為でしょうか、メンバーの意向よりはレコード会社の思惑優先でカットされたと言われている問題作!?

もちろん原題と異なり、露骨にコーラを用いた邦題は歌詞の内容に由来するものです。

 アメリカの偉大なる国民的な文化は
 コーラを飲んで 煙草を吸って
 野球をやって 
 
 とにかくコーラの偉大な味は
 プレイヤーも 嫌なやつも
 みんなをリフレッシュさせる

等々云々と、かなり皮肉っぽく歌っているのは、明らかに社会風刺という事でしょう。

しかも原詞の中には、はっきりと「Coke」なぁ~んて商標が出ているんですから、いやはやなんとも……。

ちなみに当時のバーズのメンバーはロジャー・マッギン(g,vo)、クラレンス・ホワイト(g,vo)、スキップ・バッテン(b,vo,key)、ジーン・パーソンズ(ds.g,b,key,vo,etc) という、なかなか手強い面々が揃っていましたし、この曲を含むレコーディングセッションはバーズ自らのプロデュースよって完成されたというのですから、ひとつの充実期だったと思います。

それは同時期に残されているライプ音源の勢いが今日でも高い評価を維持している事に加え、率先してカントリーロックという新しい流行を作り出さんとする意気込みは侮れません。

実際、この「コーラとアメリカ人 / America's Great National Pastime」にしても、白人ブルーグラス風の演奏を巧みなロックフィーリングに仕上げ、また前述した皮肉っぽい歌詞をスカッとやってしまうあたりは、なかなか気が利いているんじゃ~ないでしょうか。

ただし、残念ながらヒットはしていませんし、結果的にバーズが解散への道を選んだ、そのきっかけのひとつになったと言われるほど……???

う~ん、なかなか音楽業界も儘なりませんねぇ。

ということで、何時しか馴染んでしまったコーラの味も、それがアメリカでは「文化」になっている事を知ったのは相当後年でしたから、この歌の内容もなかなか理解していたとは言えません。

しかし結果的にバーズが逸早く指向していたカントリーロックが、1970年代のウエストコーストロック、あるいはアメリカンロックそのものの雛型であった事実と同じく、アメリカにおいても最初っから決して馴染んでいたとはど~しても思えないコーラが、アメリカの食文化を代表してしまう事になろうとは!?

ちなみにコーラばかりではなく、似たような炭酸飲料は糖分過多ということで、ダイエット系の同種同類が出たり、地域によってはラージサイズの販売が禁止されたりするんですから、それでも売れるのは何かしらの中毒性があるんでしょう。

もちろん原料は秘密になっているらしいですが、アブナイ薬物と共通する「あれ」が入っているのは、商標からも都市伝説を超越した一般常識!?

ただし、そこまで言うなら、バーズに中毒した方が健全だと思うばかりです。


加山麗子、良かったですねぇ~♪

2012-06-10 15:42:50 | 歌謡曲

うらみ花 / 加山麗子 (東芝)

完全に低迷していた昭和40年代後半からの日本映画界で最高の成果を上げたのは、様々な異論があるにせよ、日活ロマンポルノだったと思います。

特に今日でもテレビや一般映画で活躍を続けている有名女優が、ロマンポルノからデビューであったり、そこを舞台に飛躍していった例は夥しく、本日ご紹介の加山麗子もそのひとりとして忘れられません。

それは昭和52(1977)年、所謂「お正月大作」であった「肉体の門(西村昭五郎監督)」で主役のボルネオ・マヤに抜擢されての登場が実に鮮烈! 宮下順子、渡辺とく子、山口美也子、志麻いづみ……等々のスタアに囲まれながら、持ち前の清楚な面立ちと相反する大胆な演技は忽ち人気を集めたんですねぇ~♪

ちなみに件の「肉体の門」は昭和39(1964)年に鈴木清順監督が野川由美子を主役に撮った日活を代表する名作のリメイクですから、会社側の期待と現場のプレッシャーは相当なものだったと思いますし、実際の仕上がりは正直、比較しても結論云々は言うまでもないところです。

しかし、それでもロマンポルノ版は出演女優の個性が秀逸に発揮され、中でもほとんどキャリアの無い加山麗子が、それゆえに新鮮な魅力で輝いたのは天性の資質でしょう。

もちろん、こうした新人抜擢の企画と遣り口は、日活がロマンポルノで度々使っていた常套手段でありましたねぇ~♪

そして以降、加山麗子は「金曜日の寝室(昭和53年・小沼勝監督)」「エロチックな関係(同・長谷部安春監督)」「帰らざる日々(同・藤田敏八監督)」「危険なハネムーン(同・林功監督)」に出演し、何れも大ヒットに貢献しています。

さて、そこで本日のご紹介のシングル盤は彼女が昭和53(1978)年春に出した歌手としてのデビュー作で、特にA面収録の「うらみ花」は、梶芽衣子が主演代表作にしている「女囚さそり(東映)」からの大ヒット曲「怨み節」を痛切に意識した情念演歌!

ジャケ写の強い目線のポートレートからも、なかなか熱い心が伝わってきます。

う~ん、実はこのレコードが出た当時、サイケおやじの周囲では、日活ロマンポルノ版「さそり」が加山麗子の主演で作られているのでは!?

という期待と予想があったんですよっ!

なにしろ彼女の芸歴の中には「肉体の門」で主役を演じる前に、本家東映のさそりシリーズ「新女囚さそり・特殊房X(昭和52年・夏樹陽子主演)」のちょい役があるんですから!

結果的に、それは実現されることはありませんでしたし、彼女本人も翌年には一般映画やテレビの仕事に活動の軸足を移してしまったのですから、この「うらみ花」は、まさに妄想の産物というか、ファンには悲喜こもごもの思い出の名唱というわけです。

ということで、加山麗子のような本当に美しい女優さんが、現代のAVよりも遥かに背徳性の高かった成人映画に出ていたのですから、なにか隔世の感があります。

もちろん職業に貴賎はあろうはずも無く、それでも「恥じらいの文化」は確実に存在していた時代であればこそ、そこに登場するスタア女優の輝きは一段と強かった!?

それが、あの時代の真実のひとつではないでしょうか。


朝加真由美は、あさかまゆみ♪

2012-06-09 15:34:03 | 歌謡曲

虹色の夢 / あさかまゆみ (徳間音工)

既に名声を確立してながら、そのデビューが歌手だったという女優さんは相当に多く、例えば現在の朝加真由美はアイドルだった、あさかまゆみ♪♪~♪

とにかくスレンダーな肢体とナチュラルな可愛さは、なかなか男好きのするタイプであって、しかも爽やかなイメージも絶対に崩れないのですから、これで人気が出なかったら世界の七不思議だったと思います。

それは制作側の力の入れ方にも明確で、本日掲載のシングル盤は昭和48(1973)年に発売された彼女のデビュー作なんですが、特にA面収録の「虹色の夢」は作詞:阿久悠、作曲:森田公一、そして編曲:馬飼野康二という、まさに当時のヒットメーカーがスクラム組んでの名曲なんですねぇ~♪

ところが、肝心の彼女の歌唱力が、まあ、そっとしておきたいレベルというか、どう庇っても、ターヘ……。

もちろん、その時代だって、特に実名は出しませんが、同じ程度のレベルか、それ以下というアイドル歌手は登場していたんですが、彼女の場合は、のど自慢番組だった「オールスター家族対抗歌合戦(フジテレビ)」でアシスタントもやって人気が出ていたんですから、今となってはシャレにならないですよねぇ。

しかし同時にテレビ特撮のウルトラシリーズ「ウルトラマンタロウ」にもレギュラーの白鳥さおり役で出演し、その健気で溌剌とした魅力は、後の実力派女優の片鱗を見せたとして有名♪♪~♪

ですから結果として5~6枚は出しているシングル盤は全くヒットしていませんが、昭和50(1975)年頃に朝加真由美と改名した頃からは女優業中心の活動で、特にテレビではサスペンスから時代劇、ホームドラマやバラエティ番組まで、満遍なく今日まで出演し続けているのは流石と思うばかりです。

また、決して忘れてはならないのがグラビア関連での人気で、アイドル時代からミニスカやホットパンツ姿は定番でありましたから、水着も含むキワドイ衣装もイヤミにならないセクシーさは、たまりませんでしたねぇ~♪ 当然ながら、大人の女性としてのヌード写真集も出しておりました♪♪~♪

そのあたりのエロキューションは、掲載したジャケ写でのミニスカ&美脚の雰囲気の良さ、その奥が気になってしまうほどの煩悩喚起作用が強烈であるとおり、これがデビューであったという印象は今も最高でしょう♪♪~♪

ということで、あさかまゆみは朝加真由美になって決定的な居場所を得たわけですが、所謂B級アイドルで終わった歌手時代も忘れられません。

既に述べたように、惜しむらくは歌唱力の問題をクリア出来ませんでしたから、音源が纏まって復刻されているとは思いませんが、楽曲そのものは粒ぞろいだったんですから、メーカーとご本人の英断に期待したいところです。


本当に好きだった広川あけみ

2012-06-07 15:15:24 | 歌謡曲

悲しき天使 c/w Hey Jude / 広川あけみ (東芝)

昭和40年代前半、我国歌謡フォークの女王と言えば森山良子に決まっていますが、サイケおやじが本当に好きだったのは、本日ご紹介の広川あけみ♪♪~♪

とにかく掲載ジャケ写の可愛さ余って憎さ百倍という他はない、なんとも微妙な胸キュンフィーリングのルックスは、明らかに青春の思い出という感じでしょうか。

しかも芸能界における存在そのものが、完全に森山良子のライバルとか対抗馬というよりも、後追い的二番煎じでありながら、そこがまた琴線に触れてしまう「何か」を彼女は持っていたと思います。

それは昭和43(1968)年末に何んとっ! 本家メリー・ホプキン盤と競作の形で世に出た「悲しき天使 / Those Were the Days」の日本語バージョンを聴けば一発!

その爽やかにして一抹のせつなさをナチュラルに表出する広川あけみの個性は本当にたまりませんが、実は漣健児が担当した訳詞では森山良子も似たようなアレンジで同曲を歌っていたという真相が!?!!

 想い出す~のは~、あの日のことぉ~
 暖か~い 恋の夢ぇ~
 春の風ぇ~と 鳥の歌ぁ~と
 やさしい~ あなたがいたぁ~

 ららら らぁ~らら~~♪

というサビからキメのハミングコーラスの気持良さは、もちろん森山良子のバージョンでも楽しめるんですが、広川あけみの味わいは、さらに歌謡曲っぽいところがサイケおやじの好みというわけです。

ちなみに「悲しき天使 / Those Were the Days」という歌そのものは、メリー・ホプキン盤が世界的に発売となった同年8月より以前から、何故か日本でも知られていて、それも日本語の歌詞が付いてた記憶があるところから、当時の所謂カレッジフォークの世界では広まっていたんでしょうねぇ。

後に知ったところでは、その「悲しき天使 / Those Were the Days」の原曲は20世紀初頭から欧州で地味ながら流行していたというジプシー音楽がルーツらしく、そのメリー・ホプキンのプロデューサーたるポール・マッカートニーは流石の選曲!

しかし、そのまた上(?)をいってしまったのがこのシングル盤で、驚くなかれB面収録がビートルズの大ヒットにして、ポール・マッカートニーの代表曲「Hey Jude」なんですねぇ~♪

で、このあたりの流れをちょいと整理してみると、当時のビートルズは自らの会社「アップル」を設立し、そのレコード制作第一回の発売が1968年8月末の「Hey Jude」、続く第二弾がメリー・ホプキンの「悲しき天使 / Those Were the Days」であり、当然ながらチャートのトップに輝いた「Hey Jude」と入れ変わるようにその座を奪ったのが「悲しき天使 / Those Were the Days」という因縁も思惑通りならば、その2曲をカップリングして出すという仕業も「あざとい」の一言では片付けられないでしょう。

まあ、これが日本で実現したのは、その頃にビートルズの版権を扱っていたシンコーミュージックと漣健児=草野昌一の繋がりがあればこそかもしれませんが、しかし広川あけみバージョンの日本語訳詞は片桐和子なんですから、興味は尽きません。

 ヘイ ジュード~  こころのぉ~ とびらを 広くあけぇてぇ~♪
 悲しい うたを忘れて しあわせを~ みつけよう~~♪

と、これまた素直な感性で歌ってくれる広川あけみは素敵です♪♪~♪

しかし、それゆえにヒットにはイマイチ届かず、それでも人気だけは相当にあったんですから、もう少し本格的な歌謡曲をやっても良かったんじゃないのかなぁ……?

等々と思うばかりです。

ということで、こんなところで広川あけみを出したのは、もちろん先日、森山良子のレコードを久々に聴いてしまったからでして、実は彼女は続けて同じポール・マッカートニー&メリー・ホプキン関連のヒット曲「Goodbye」を歌ったシングル盤を出しているんですねぇ~♪

しかしっ!?!

確かに持っていたはずなのに、こんな時に何故か行方不明……!?!

誰に貸した記憶も無いので、絶対に自宅内にあるはずと確信は持っているのですが、一昨夜から探索しているのに見つからないとは、これ如何に???

う~ん、愛おしいなぁ~~~♪


真似には真似の良さがある

2012-06-06 14:54:41 | Pops

Suspicion / Terry Stafford (Crusader / キングレコード)

今週のサイケおやじは仕事で某特許関連の揉め事に首を突っ込む仕儀となり、そこで第三者の立場としては正直、どっちもどっち?

それぞれの言い分が理にかなっているのですから、言わば「本家」と「元祖」の競い合いみたいな感じなんですが……。

そこで思い出したのが本日掲載のシングル盤A面曲「Suspicion」で、とにかく1964年にアメリカはもちろん、日本でも相当に流行った素敵な洋楽ポップスなんですが、問題化しそうなほどに特徴的だったのは、当時新人だったテリー・スタッフォードの歌い方!

な、な、なんとっ! 声質から節回しまでもが、エルヴィス・プレスリーにクリソツなんですねぇ~~!?

これはあまりにも有名な洋楽ネタのひとつになっているほどです。

しかも驚くべきは、この「Suspicion」が本来はエルヴィス・プレスリーのオリジナル演目として、既に1962年に発売されていたアルバム「ポットラック」に入っていたのですから、いやはやなんとも!?

そうした事実をサイケおやじが知ったのは、実は昭和45(1970)年になってからで、深夜放送の洋楽系番組で件の2バージョン聴き比べという企画は興味深いものでしたし、告白すればエルヴィスのバージョンは、その時点が初体験!

ですから、それまで気に入っていたテリー・スタッフォードのバージョンにしても、リアルタイムの昭和40(1965)年頃にラジオで聴いて以降、最初はそれと気がつかなくとも、なにかエルヴィス・プレスリーっぽいものは感じていたわけでして、そうした謎解きが開陳されてみれば、妙に呆気無く思えたのが本音です。

しかし、それでもエルヴィス・プレスリーのバージョンは流石に説得力が満点で、後に知ったところでは、テリー・スタッフォードの物真似(?)カバーバージョンが大ヒットしてしまった事への対抗処置というか、一応はシングル盤のB面扱いだったそうですが、エルヴィス・プレスリーも自身のオリジナルバージョンを同時期に発売しています。

ちなみに掲載ジャケ写には曲タイトルがカッコ付きではありますが、邦題「恋のおもわく」とされ、一方のエルヴィス・プレスリーは、これまた邦題を「うたがい」としているのは、なかなか意味深かもしれません。

そして聴きこむほどに、この両バージョンは基本的には一緒かもしれませんが、テリー・スタッフォードはあくまでも「ポップス」として歌っているのに対し、エルヴィス・プレスリーは当時最新のサウンドだったブリティッシュビートに負けない尖がった良さを滲ませていて、これがビートルズのブレイク前だった1962年6月の発売だった事は、これまた驚愕です。

ただし、それでもテリー・スタッフォードのバージョンが今日でも親しまれているのは、物真似云々を詮索する以前の潔さが感じられるからではないでしょうか?

ここからはサイケおやじの妄想ではありますが、未だ新人歌手だったテリー・スタッフォードが、あえてエルヴィス・プレスリーというキングの演目を歌ったとあれば、その影響を受けてしまうのは当然であり、敬意を払った末の結果だったのかもしれません。

もちろん制作側の恣意的な行動は言うまでもなく、テリー・スタッフォードの歌は、これ以外にエルヴィス・プレスリーをそれほど真似ているものはありません。

そこで冒頭の話に立ち返ってみれば、「本家」や「元祖」と言ったって、ここまで両方が生き残っている現実は、それぞれに支持支援が続いて来た証なのです。

そういう部分を鑑みて、なんとか大人の対応で収まるよう願いつつ、サイケおやじはテリー・スタッフォードの「Suspicion」を聴いているのでした。


リック・ネルソンはカントリーロッカー

2012-06-05 15:28:24 | Rock

思い出のガーデン・パーティー / Rick Nelson (Decca / ビクター音楽産業)

1970年代ロック主流のひとつだった所謂ウエストコーストロックは、その本質における前段としてのカントリーロックが大きな要素となっていた点について、今更サイケおやじが稚拙な筆を弄するまでもないと思います。

しかし、その流れがすんなりと受け入れられていたかについては、諸説あるんじゃ~ないでしょうか?

例えば本日の主役たるリック・ネルソンは、リッキー・ネルソンと名乗っていた子役時代からアイドル歌手としてトップの存在だった1960年代前半まで、両親が共に芸能人だったこともあり、如何にも「七光り」が強い評価だったようです。

しかし本人の生真面目さは相当だったようで、今ではオールディズの範疇で楽しまれる当時のヒット曲の数々にしても、バックを務めていたジェームス・バートン(g)、ジョー・オズボーン(b)、ジミー・ハスケル(arr) 等々の超一流ミュージシャンと作り上げたレコードは謹聴する値が絶対的!

なにしろそこには既に後年のカントリーロックの萌芽がきっちりあって、しかもリック・ネルソンと改名していたとはいえ、決してアイドル歌手の産業ポップスとは言えないほどの充実度が高いんですねぇ~♪

例えば有名なところだけでも「Travelin' Man」「Hello Mary Lou」「Poor Little Fool」「Stood Up」「I'm Walkin'」「A Teenager's Romance」「Be Bop Baby」「Believe What You Say」「Never Be Anyone Else But You」等々、アイドルとしての本質的甘さの含んだ歌唱があればこそ、そこには過言ではなく、有能なバックミュージシャンとのコラポレーションが成立しています。

しかし時の流れは非情であって、リック・ネルソンもリアルタイムのアメリカの歌手同様、ビートルズの登場によって人気を失い……。

というあたりまでが、良く知られているリック・ネルソンの物語でしょう。

ところが本当に知れば知るほど深くなってくるのが、その落ち目の時期の活動で、実は告白すると、サイケおやじがリック・ネルソンに興味を抱いたのは、掲載したシングル盤A面曲「思い出のガーデン・パーティー / Garden Party」がヒットした1972年以降の事であり、既に述べた様なカントリーロック保守本流の味わいが色濃い歌と演奏からは、そのあたりの状況がジワジワと感じられたのです。

そこで遡ってリッキー・ネルソン時代をも包括したベスト盤を聞いてみると、前述した代表曲の他にも、まさにルーツ・オブ・カントリーロックがぎっしり!?!

また、もうひとつ告白しておけば、ちょうどサイケおやじの周囲に時代の巡り合わせが良かったというか、例のエルヴィス・プレスリーのライプ映画「エルヴィス・オン・ステージ」で強烈なエレキギターを堪能させてくれたジェームス・バートンが、実はリック・ネルソンのバックでも既にロックギターの基本とも言うべきスタイルを確立させていたという真実に触れた事が大きく、実はその偉人ギタリストの功績を知った相乗効果もありました。

さらに加えて、やはりこの「思い出のガーデン・パーティー / Garden Party」がヒットした同時期には、後のウエストコーストロックの代名詞的グループとなるイーグルスがデビューしており、そのオリジナルメンバーだったランディ・マイズナー(b,vo) が同様にカントリーロックの始祖的バンドだったポコからイーグルスへ至る過程に、なんとっ! リック・ネルソンが率いるストーン・キャニオン・バンドのリーダー格であったという衝撃(?)の事実!

そんなこんながゴッタ煮的な情報となって、尚更サイケおやじは当時興味を抱きはじめていたリック・ネルソンという歌手の深みにどっぷりになっていったんですねぇ~~♪

ただし、その頃の我国ではリック・ネルソンのレコードにしても、前述したベスト盤だって輸入の中古でやっと買えるほどの冷遇でしたし、結果的に日本では小ヒットに留まった「思い出のガーデン・パーティー / Garden Party」が入った同名LPも決して売れていたとは言えません。

ですから、リック・ネルソンが本国アメリカで出していたオリジナルアルバムを聴くには、なかなか時間が必要であり、しかしそれゆえに地道に接触して行った一連の作品には愛着があります。

そして親しむほどに、実は落目の1965年以降に制作発売されていたレコードには早すぎたカントリー&ウエストコーストロック風味が満点で、特に「カントリー・フォーエヴァー」や「ブライトライツ&カントリーミュージック」の2枚のLPが秀逸の極み♪♪~♪ バックで快演を披露するのは後にバーズに入り、これまた元祖カントリーロックの名盤「ロデオの恋人」等々で活躍するクラレンス・ホワイト(g) だった事も因縁を感じます。

今となっては、そのあたりの復刻状況がどうなっているのか不明ですが、機会があれば、ぜひとも楽しんでいただきたいのが、カントリーロック期のリック・ネルソンなのです。

ちなみにここで「カントリーロック期」と書いたのは、やはりリック・ネルソンにしても、1960年代末頃には流行のサイケデリック&ソフトロックに手を出していた現実があるからで、それはそれで悪く無いことも確かなんですよ……。

しかし、それでも本人の資質はやっぱりカントリーロックにある事は明白であって、とにかく久々のヒットになった「思い出のガーデン・パーティー / Garden Party」の穏やかな曲調と爽やかなハーモニー、些か意味不明の歌詞が???ではありますが、相反するような深みのある演奏とハートウォームな全篇の雰囲気の良さは最高♪♪~♪

ところが好事魔多しというか、この後にはさらに流行を率先するようにシンガーソングライター的な活動を開始するのですが、時代は同じくオールディズのリバイバルがブームとなり、そんな懐メロショウに出演を要請された本人が昔の歌よりも、現在の新曲をやっては浮いてしまったという悲惨(?)は哀しい現実だったようです。

そして1985年の大晦日、巡業中の飛行機事故により、リック・ネルソンはスタッフや友人と一緒に突然の悲報……。

う~ん、本当にせつないものを感じてしまいます。

最後になりましたが、1990年代前半にちょいと人気があったアイドルグループのネルソンは、リック・ネルソンの遺児となった双子の兄弟がメインのハードロックバンドで、その音楽性はハードロックとカントリーロックの巧みな折衷スタイル!?

サイケおやじは、そう思うことによって、リック・ネルソンの意思の継承を確認しているのでした。


シャツはウキウキの証明

2012-06-04 15:25:27 | Singer Song Writer

ぼくの好きなシャツ / Donovan (Epic / CBSソニー)

全てにおいて「お寒い」我国でも、クールビズは否応なく進んでいるようで、特に政府の方針からノーネクタにシャツ姿励行というお役所は、さながら避暑地の如し!?

もちろんサイケおやじの職場でも、それは同様ですが、保守的なサイケおやじは少なくと自分の部署においてはド派手にならないよう、求めています。

ただし、あまり自由を束縛するのは一般的職場に当てはまらないところもありますから、まあ、ほどほどにというのが本音なんですけどねぇ~。

実際、毎日着ていくシャツを選ぶのが、けっこう楽しかったりします♪♪~♪

そこで本日の1枚はミエミエではありますが、ドノバンが歌ってくれた「ぼくの好きなシャツ / I Love My Shirt」を楽しく口ずさみましょうね♪♪~♪

 ♪~アイ ラヴ マイ シャ~~ツ♪♪~♪
 ♪~アイ ラヴ マイ シャ~~ツ♪♪~♪

浮かれた調子のピアノをバックに、なかなかハッピー&オールドタイミーなフォークロックが演じられますから、気分はすっかりウキウキ状態ですよ、例え今から仕事に向かうとしても!

ちなみにこの歌は、1973年春の来日公演に合わせた所謂「来日記念盤」として発売のシングル盤A面に収録されたものですが、楽曲そのものは既に1969年発表の傑作アルバム「バラバジャガ」で世に出ていたんですねぇ。

実は当時のドノバンは、名プロデューサーのミッキー・モストと別れ、独立独歩でロックバンドを率いてみたり、豪華ゲストを招いてのアルバム制作もイマイチ精彩を欠いていた時期でした。

しかし待望の来日公演が決定したとあれば、我国レコード会社がタイアップ的に「記念盤」を出すというのはひとつの「お約束」であり、その中で結局は新作からカット出来るものが無かったのか……?

という推察は易いと思います。

う~ん、このあたりは当時の外タレ公演が如何に貴重なものだったかを物語る証左として、お若い皆様にはご理解願いたいところなんですが、だからと言ってドノバンの才能が枯渇していたわけではありません。

なにしろ今や伝説となった件の日本公演は、武道館のような大会場でも、たったひとりでアコースティックギターの弾き語りを聴かせ、観客を圧倒する濃密な空間を提供したというのですから、それは全くの「事件」だったんですよっ!

お疑いの皆様には、リアルタイムで発売されていた来日ステージのライプ盤「ライブ・イン・ジャパン」をご確認下さいませ。

ということで、ちょいと話がそれてしまいましたが、クールビズのシャツ姿は「良」としても、そこに短パンとサンダルは何かいただけない気分です。

だって、これは昨年も同様だったんですが、例えば某お役所に仕事関係のお願いに行った時、こちらは礼を失しないよう、それなりのきっちりした服装であっても、話を聞いていただく相手がリゾートっぽい衣装じゃ~、なにかナメらしている感じがするんですよねぇ……。

それは例え、逆の立場だったとしても、同じ気持になるんじゃ~なかろうか!?

そんな事を思いつつ、今日も、♪~アイ ラヴ マイ シャ~~ツ♪♪~♪ なぁ~んて歌ってしまうのでした。


片思いは禁じられない…

2012-06-03 15:25:37 | 歌謡曲

禁じられた恋 / 森山良子 (フィリップス)

昭和42(1967)年から昭和45(1970)年頃までの我国芸能界で、ポップス系女性歌手のトップは黛ジュンでしたが、実は彼女に負けず劣らずの人気を集めていたのが森山良子でした。

ご存じのように、森山良子と言えば所謂カレッジフォークの歌姫として、その清楚なルックスを裏切らない「声」の魅力は絶大だったと思いますし、実際にその節回しの素直な上手さは現在でも認めざるをえません。

しかし、だからと言って、好き嫌いは別であり、特に常日頃から「歌謡フォークは軟弱!」という立場を貫いていた中高生時代のサイケおやじにとっては、些か面映ゆい存在でした。

何故ならば、やっぱり森山良子は素敵な女性であり、歌だって悪くないどころか、かなり良かったりするんですからねぇ……。

特に昭和44(1969)年春に大ヒットした本日掲載のシングル盤A面曲「禁じられた恋」は、悔しいほどにサイケおやじの琴線に触れまくり♪♪~♪

尤もそんな事は当時、誰にも言えない秘密でありました。

さて、そんな虚勢を張っていた高校時代のある日、ケイオン同好会フォーク組のリーダーから、「森山良子のコンサートのチケットが纏まって入るから」という誘いがありました。

もちろん、サイケおやじは即座に却下です。

だって、自分の立場からして、それにホイホイ乗ってしまうなんてこたぁ~、出来るはずもありませんし、第一に先立つお金も無かったんですねぇ。

ところが次の一言には茫然自失!?

「なんだぁ、残念だなぁ~、Mも一緒に行くんだけど」

ゲッ! なんでそれを先に言わねぇんだっ!!

実は件のMとは、高校時代を通してサイケおやじが密かに憧れていた同級生の女子であり、ルックスが東てる美に似ていたというだけでなく、ちょいと派手めな印象も決して出しゃばらないところが良かったんですよねぇ~~♪

しかしそれでも気弱で変態のサイケおやじは、それゆえになかなか話しかけることすら出来ず、遠くから眺めているだけの幸せに浸るという、真性ネクラな思いを募らせていたのですから、そういうチャンスを自らの依怙地で潰してしまったバカさ加減には心底嫌気が……。

まあ、今となっては、もしもその時、一緒に森山良子のコンサートに行けたとしても、それは団体行動ですから、必ずしも彼女と親しくなれたとは思いませんが、なにか闇雲な期待が外されたという気分は消し去ることが出来ません。

そうして時が流れました。

高校卒業後の進路が異なっていたこともあり、彼女とはそれきっりというか、元々つきあっていたわけではないので、別れなんていう言葉も当てはまらず、それでも数年後には、どうやらお金持ちと結婚されたという風の噂を知っただけです。

それが既に十年前以上になりますが、某パーティ会場で華やかに振る舞う彼女を見かけ、相変わらず聡明な佇まいの和服姿は美しかったですねぇ。しかも驚いた事には、彼女のご令嬢が若い頃の母親本人にそっくりになっていたんですねぇ~。

う~ん、せつない気分になりましたですよ、これには……。

もちろん、その時もサイケおやじは彼女には気づいてもらえず、こちらから話しかける事も出来ませんでしたが、齢を重ねても美しさを失わない彼女に対し、ショボくれた中年者の自分を対比してみれば当然と思うばかりです。

ということで、本日は見苦しい告白に終始してしまい、申し訳ありませんでした。

というのも、きっかけは昨日、「また逢う日まで」のシングル盤をレコードラックから取り出した時、貼りつくように一緒に出て来たのが、この「禁じられた恋」だったという偶然によるものです。

なにか、こっちも聴いて欲しいという訴えが感じられたというわけでもないんですが、似たようなもんですか?

確かに森山良子の歌声には、安っぽい感傷を増幅し、それを逆に霧散させてくれる不思議な力があるように思えるのでした。


尾崎紀世彦に出会えた幸せ

2012-06-02 15:24:00 | 歌謡曲

また逢う日まで / 尾崎紀世彦 (フィリップス)

ニッポンのボーカリストと呼ぶに相応しい尾崎紀世彦の訃報に接しました。

享年69歳……。

思えば本年春先、マスコミが騒いだ疑似失踪事件も、なにか突然の悲報に繋がる本人の病状を知り得た中での関係者による、ある意味での気遣いだったようにも思います。

ご存じのとおり、故人は卓越した歌唱力があったがゆえに純粋な歌謡曲には馴染みにくい個性があったのかもしれませんが、逆に言えば本日掲載のシングル曲「また逢う日まで」を歌えたのは絶対的な幸せであったにちがいありません。

なにしろ昭和46(1971)年の我国歌謡界は、その名曲と尾崎紀世彦のためにあったと言えるほどで、当然ながらレコード大賞や歌謡大賞といったビッグタイトルは全て獲得! しかも当時、洋楽の世界で大人気だったイギリスのトム・ジョーンズという豪快派ボーカリストに負けない、和製トム・ジョーンズとまで称賛された実力を満天下に知らしめたのですから、平成の世にあっても常に懐メロ番組の常連という以上の存在感は圧倒的でした。

それと「また逢う日まで」の大ヒットによって、作曲家としての筒美京平が一般に知られるようになった事も特筆すべきだと思います。

実は今日では既定の事実になっていますが、「また逢う日まで」のオリジナルメロディはCMソング用に書かれたものであり、それが転用されて、まずはGSのズー・ニー・ヴーが「ひとりの悲しみ」という曲タイトルと別歌詞で昭和45(1970)年に出していたのですが、結果的にヒットしていません。

ちなみに「ひとりの悲しみ」も「また逢う日まで」も、作詞は同じ阿久悠が担当したものですし、曲アレンジも基本は一緒!?

しかしズー・ニー・ヴーのバージョンはバンドによる演奏がメインであり、オルガンやファズギターを前に出した使い方は、失礼ながら些かの時代遅れ感が無きにしもあらずと思います。

その点、「また逢う日まで」は全面的にオーケストラが導入され、リズム隊では派手にドライヴするエレキベースが最高にグルーヴィですし、何よりもダイナミックな尾崎紀世彦の歌唱と一体になって盛り上がる演奏は永遠に不滅でしょう。

もちろんズー・ニー・ヴーでリードを歌っていた町田義人だって、それは凄いボーカリストである事は否定しませんが、その時代へのジャストミートした味わいというポイントにおいて、尾崎紀世彦に軍配が上がったという事です。

それは町田義人がズー・ニー・ヴーでは昭和44(1969)年に「白いサンゴ礁」のヒットを出し、グループを脱退してからは夥しい本数のCM曲を歌いまくり、さらにはテレビや映画のサントラ音源での主題歌を多数ヒットさせている実績を残した事でも証明されるとおりの実力派だった真実があるのですから!

まあ、このあたりの運命の分かれ道(?)は、もしかしたら運否天賦というやつかもしれず、その意味で尾崎紀世彦が「また逢う日まで」を凌駕するヒットを出せなかった事にも、それは共通するんじゃないでしょうか。

ということで、歌手としての尾崎紀世彦の仕事としては、ソロ活動以前に昭和42(1967)年頃からのワンダーズというコーラスグループでの存在が確認されているのですが、中でも特に知られているのがテレビ番組の主題歌を多数レコーディングしている事でしょう。

それはサイケおやじの世代にとって、例えば特撮時代劇の「妖術武芸帳」であり、エコーズという変名プロジェクトにおける「ウルトラセブン」は、完全に五臓六腑の隅々にまで染み込んでいるはずです。

また故人の生き様は相当に自由奔放だったそうで、実はサイケおやじは、ずぅ~~と前に某バイクショップでパーツを選んでいる姿を見かけたこともあるとおり、趣味も多彩だったんでしょうねぇ。

人の一生は他人がとやかく言えるものでは決してありませんが、尾崎紀世彦は永遠の名曲「また逢う日まで」を歌う事によって、様々な幸せをリスナーに与えてくれました。

そしておそらく、それは本人の幸せでもあったにちがいありません。

いゃ~~、今日は朝から何度も掲載シングル盤に針を落しておりますが、その都度湧き上がる高揚感と幸せな気分は、故人が残してくれた大切な宝物♪♪~♪

ありがとう、尾崎紀世彦! また逢う日まで!

感謝をこめて、合掌です。