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テロ国家指定解除は吉か凶か?    落石

2008年10月12日 16時23分02秒 | Weblog
北朝鮮がテロ国家でなくなった。
あっという間の解除。
なにがあったのか?

世界同時株安の大恐慌の足音が
ブッシュさんに解除を決断させたのか?
アメリカで何が起こっているのか?
とにかく変化が起きていることは確か。

日本外交はある意味で、正念場。
独立国としての自主外交をするチャンス。
もっとも日本外務省が願ってきたわけではないので、
とまどっているだけかも。

拉致問題の解決にとっては良いか?悪いか?
分からない。

「日本の存続をかける気構えで対処してほしい」
と、拉致家族会の談話。
気持ちは分かるけれど、日本人全体が危うくなっては困るな、
という気持ちも・・・

外務省はどういう態度に変わるのか?
すくなくとも日本だけ強硬路線はとれない。
路線の変更を余儀なくされる。

ひとつの可能性。
戦後処理で援助をしていく。
これが北の経済発展に役立つようになれば、
北の人たちの気持ちも変わることは間違いない。

やがて自由な交流が可能になってくれば、
拉致家族が北へ渡って、肉親に会える可能性は増す。
それに何年かかるかは、予想がつかないが、
急がば回れ、のことわざが、案外、正解なのかもしれない。

外務省の方向が決まれば、やがてマスコミに世論誘導の
記事が登場するでしょうが・・・








コメント (3)
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戦 友 会 中野寂音

2008年10月12日 12時51分53秒 | Weblog

 ある日ラジオを聞いていて、さだまさしの唄う「戦友会」を聞いた。
面白い歌詞なので調べてみた。

櫛の歯の欠けるように 仲間が減ってゆく
   戦友会に出かけた夜、おやじが呟いた
学舎でなく古の戦いの友が集う
年に一度の 思えばなんて儚い祭りだろう

 戦後の社会現象といわれ、太平洋戦争に参加した戦士達の戦友会が
日本全国で開かれていた。
戦後六十年は一つの区切りで多くの戦友会が儚く消えていった。
私の参加した二つの戦友会も消えていった
昭和二十年八月十五日中国石家荘の教育隊で終戦を迎えた。
中国から帰還の時、東京まで同行した七名で戦友会「石門会」を
今まで年に二回続けてきた。

戦後六十年はひとつの区切りとして最期の戦友会を伊豆で開いた。
もう一つの戦友会は戦後五十年経って始めて参加した。
私の原隊は三重県済宮の第七航空通信連隊である。
斉宮の部隊から昭和二十年三月末中国南京の第四航空通信部隊に転属した。
部隊のことは断片的な記憶だけで、戦友も思い出すことはなかった。
昭和二十年五月部隊に、四月入営の三十名の初年兵が到着した。
たしかどこかで見たような顔をみつけた。
声をかけて聞いてみると、私と同じ小学校の二年下、私の妹と同級で、
名前は志村という、家はすぐ近くブリキ屋の息子である。
私が小学校六年生の時、ラジオ体操の号令をかけていたのでよく覚えていた。
すぐ小学校時代を思い出した。

志村君とは同じ内務班で数ヶ月生活を共にした。
その後飛行場勤務となり部隊を離れ、
八月はじめ石家荘の教育隊に派遣となった。
思い出す第四航空通信部隊の戦友はこの志村君だけであった。
内地に帰還して東京で家も近いので訪ねてみた。
志村君は戦後区役所に勤め定年を迎えたところであった。
戦争のことは思い出したくない、軍隊はすべて忘れてしまった。
数ヶ月の初年兵生活、その後八ヶ月の過酷な収容所生活、
思い出したくないのは無理のないことであろう。
戦友会も誘われたが出たことはない。

近くに戦友の谷口君が住んでいる、谷口君から来た
戦友会の記録「二一会」の資料があると渡された。
「二一会」は第四航空通信部隊田中隊の有志が日本に帰国後、
関東と東京在住の人を中心に集まったのが始まりで、
昭和四十二年田中隊長も参加、毎年国内旅行会を続けてきた。
「二一会」のあゆみは六ページ手書きのプリント、三十周年を記念して
前野、佐伯、秋山(いずれも故人)により作成された。
斉宮入営から中国南京転属そして終戦、中国各地の収容所を経て
日本への帰還、帰国後の戦友会の記録まで簡潔に見事にまとめられ感心した。
「二一会」の戦友とは外地を含め八ヶ月間軍隊生活を共にした。
五十年前をこの記録により思い出すことができた。
「二一会」の名簿をみても思い出す人は、志村君、田中中隊長、
香田見習士官の三名だけであった。

戦後五十年を迎えたが「二一会」に出席する気はなかった。
その頃「二一会」を熱海で開くと通知があった。
別の会合予定があったが、やはり何となく懐かしく、
夜の会食にだけ参加を決心した。
平成八年七月五日熱海かんぽの宿「二一会」に参加した。
参加者は十三名であった。
五十年前の私のことを覚えている人は当然いなかった。
しかし斉宮時代の五中隊の話を出すと、参加者すべてに
五十年前の思い出がわき上がってきた。
この会では戦後中国の収容所の思い出が多かったが、
私の参加により話は一挙に斉宮時代に戻つていった。
田中中隊長は私のことは記憶になかった。
しかし斉宮から中国南京到着までの転属の詳細な話を聞くことができた。
田中中隊長は幹部候補生出身砲兵である。
満州から部隊新設のため斉宮の部隊に配属となり、
全転属部隊の輸送司令官として中国南京に着任した。
戦後語学を生かして製薬会社に就職永らくブラジル勤務で、
その後定年退職された。この後「二一会」に何回か参加。
田中中隊長の活躍の話を楽しみにしていたが、平成十四年逝去された。
戦後六十年集まる人も減り「二一会」も解散することになった。                
                  (平成十七年四月一日)

   
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今後は、シュート練習だけを!   文科系

2008年10月12日 10時41分25秒 | Weblog
「大久保らFW赤っ恥…小学生並みシュート練習」
「岡田監督激怒!FW陣がシュート外しまくり」
サッカーサイトの見出である。サンスポによるとこんな光景だったらしい。

【 屈辱的な光景だった。約1時間40分の練習を終えると、岡田監督はFW陣にMF香川を加えた8人を呼び出し、居残りシュート練習を指示。DFを1人も置かずにGKと1対1、ゴール前10メートルもない至近距離から、転がってきたボールを蹴ること20分。選手は黙々と両足を振り続けた。
(中略)
 サッカーを始めた息子にシュートの打ち方を教えるお父さん。それなら微笑ましいが、ここは日本サッカーの最高峰。シュート練習を好んだジーコ元監督ですらなかった超初歩的な内容に、選手は赤面を禁じ得なかった。】

さて本日のこの結果はどうだったか? 117本のうち76本入っただけ! 1番が玉田の15分の13、2番が大久保の14分の10。大分の森島にいたっては14本打って7本!
この記事を読んで思った。日本のサッカー界全体の『選手育成戦略』が根本的に誤っていたのではないかと。僕はサッカーもやったが、これは酷すぎる。いくらなんでも! スポーツの基礎というものの考え方が、サッカー・トップの世界ではゆがんでいたとしか思えない。

次にこんなことも思った。Jリーグチームや歴代の代表監督たちは、こういう実情も知らなくて日常の練習をやっていたのか? とも。つまり、選手の実情に対して、練習内容が合致していなかったということである。こういう実情に無意識のままで練習を重ねても、実際のゲームの緊張したシュート場面では、ミスるのが当たり前ではないか。

何か、ここに日本サッカーの点取りがだめな原因を見たような気がしたのは、僕だけだろうか? 「論語読みの論語知らず」「医者の不養生」など、一種の専門馬鹿の落とし穴と見えなくもない。それも、日本のサッカー界全体がそんな病気、誤り、考え違いに陥っていた? 多分、この選手たちも、昔はこんなことは容易にできたのに、いつの間にかできなくなっていたということなのではないか。とすると、「常に基礎に帰るべき」という鉄則を忘れていたということになる。指導者たちが忘れさせていたのだ。

日本サッカー協会の役員たちは、全員坊主になって出直すべきだ。それくらいの決意で、再出発して欲しい。こんな初歩的な、しかも暦年のサッカー界全体をおかしていたと思われる戦略的誤りがあっては、サッカー協会の役員たちは彼らの主人公である国民に対して申し訳が立たないはずである。
こんなていたらくでは、これからは絶対にこうすべきだろう。ある年のうちに一度でも、15本のうち15本決められない奴は、全日本に入れない。その上で、次が「DF1人をこんなふうに付けて」、さらには、「全速力で走り込まねば届かない状況下で」などなども試してみる。その成績のよい奴から代表レギュラーに抜擢する。こんなのは当たり前のことではないか!! 他の能力は、もうそればかり練習してきたのだろうからみんな一定水準で持っていると、分かっているようなもののはずだ。




コメント (2)
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