バグダッドより 速報 ④ 西谷文和
2008年10月17日
午後7時、「アル・マンスールホテル」を抜け出し、繁華街のカラダ地区へと向かう。暗くなり、車内に座る私の顔が日本人だとばれにくくなったので、思い切って外へ出ることにした。途中、フセイン像が倒されたあの有名なフィーロードス広場を通る。この広場から世界中のマスコミが宿泊していたパレスティナホテルと、PMCが入っていたシェラトンホテルが見渡せるが、どちらのホテルも大規模なロケット弾攻撃に遭い、恐ろしくて今は誰も泊まらなくなっている。大通りに面したホテルは危ないのだ。
カラダ地区の「アル・ガディーヤホテル」の前を通る。2003年、04年にイラク入りしたとき、私が宿泊したホテルだ。「アル・ガディーヤホテル」はつぶれていた。このホテルも大通りに面しており、誰も泊まらなくなった。さらに経営者はキリスト教徒だったので、イスラム原理主義者に殺害されてしまった。
04年4月、日本人が拘束され、アメリカ人、フランス人、韓国人…と次々に「身柄拘束」されていった頃、その経営者が「(ホテルが攻撃されそうなので)本当は外国人を泊めたくないんだ」と語っていたのを思い出す。
カラダ地区の裏通りにしゃれたレストランがあるのでそこで夕食。大通りは壁に囲まれて異様な雰囲気だが、一筋街中に入ると、普段どおりの市民生活が存在する。
おそらく戦時中の日本もそうだったのではないか?「OO地区が空爆された」という情報が流れても、逃げるところがないので、粛々と日常生活を続けるしかない。
翌朝、ホテルの窓からチグリス川を眺めていると、やはり飛行船が不気味に飛んでいる。飛行船を撮影していると、「バタバタバタ」という轟音とともに2機のヘリ。昨日の爆破テロがあった辺りを旋回している。4年前は米軍が戦車で現地確認していたのだが、いまは戦車ではなく、ヘリで上空から行うしか方法がないようだ。
オマルにバグダッドでの日常生活をたずねていると、またまた「バン!」という乾いた爆発音。あわてて窓から外を確認するが、窓とは逆方向で爆発があった模様。
「ユージュアル(普通のことだ)」とオマル。ウー、ウーとパトカーのサイレン音が聞こえるが、ホテルの従業員も宿泊客も誰も驚いていない。
オマルと街へ出る。ビデオカメラを隠しながら撮影の機会をうかがうが、難しい。テロで破壊されたビルを車内から撮影。外へ出て撮影したいのだが、壊れたビルの前には数人の警官がいて、オマルが許可を求めるが、「外へ出ての撮影」は許可されなかった。
PUKのバグダッド本部へ。この建物の中に入っているときだけ、少し安心する。ここであらかじめ連絡を取っておいた、イサーム・ラシードと面会。
イサームはイラク人ジャーナリストで、私のDVD「戦場からの告発」「ジャーハダ」に、彼の撮影した映像を一部使用している。
「ニシさん、よく来たね」「イサーム、会いたかった」しばし抱擁。
イサームから日本へのメッセージを撮影する。彼は日本の支援者への感謝を口にするとともに、最後に「まいど、おおきに」。ちなみに「イラクの子どもを救う会」からの募金で、毛布などを配るときには、彼は袋に「MYDO OKINI」と書いて配布する。高遠さんらのグループからの募金で配布するときには「ARIKATO」である。ちゃんと方言を使い分けているのだ。
スレイマニアに帰る時間が迫ってきた。市内から空港まで後部座席で身をかがめるようにして突っ走る。かなりの数のチェックポイントをクリアし、空港へのだだっ広い国道に入る。「注意!この道で駐停車すれば、テロリストに襲われる危険」との赤い看板。「テロリストではなくて、米軍に襲われる」やろ、と思わず苦笑い。実際米軍は不審者に対してためらわず発砲してくる。一番恐ろしいのは米軍なのだ。
10箇所以上の検問を無事通過し、空港へ。これで一安心。この空港には非常口ではなく「シェルター」なる看板がある。武装勢力の攻撃を想定して「シェルター」を備えている空港は、世界でここだけではないだろうか?
ということで、一泊二日のバグダッド行きは、無事に終了した。まだまだ治安は安定していないが、何とか潜入取材が可能だということが分かった。次回再訪するときは、さらに治安が安定していることを望む。
★西谷氏のバクダッドの速報は今回で終了します。次回からは激戦地モスルの潜入報告を紹介します。(ネット虫)
「今日から激戦地モスルへ潜入する。モスルは今やバグダッドより危険な街で、米軍の空爆が連続的に行われているし、アルカイダもモスルに集まってきている。人口300万人の、イラク第3の大都市であるが、市内中心部は100メートルごとにチェックポイントがあり、地元住民もめったなことでは出歩かない「ゴーストタウン」と化した街である。」(西谷さんの報告から)
2008年10月17日
午後7時、「アル・マンスールホテル」を抜け出し、繁華街のカラダ地区へと向かう。暗くなり、車内に座る私の顔が日本人だとばれにくくなったので、思い切って外へ出ることにした。途中、フセイン像が倒されたあの有名なフィーロードス広場を通る。この広場から世界中のマスコミが宿泊していたパレスティナホテルと、PMCが入っていたシェラトンホテルが見渡せるが、どちらのホテルも大規模なロケット弾攻撃に遭い、恐ろしくて今は誰も泊まらなくなっている。大通りに面したホテルは危ないのだ。
カラダ地区の「アル・ガディーヤホテル」の前を通る。2003年、04年にイラク入りしたとき、私が宿泊したホテルだ。「アル・ガディーヤホテル」はつぶれていた。このホテルも大通りに面しており、誰も泊まらなくなった。さらに経営者はキリスト教徒だったので、イスラム原理主義者に殺害されてしまった。
04年4月、日本人が拘束され、アメリカ人、フランス人、韓国人…と次々に「身柄拘束」されていった頃、その経営者が「(ホテルが攻撃されそうなので)本当は外国人を泊めたくないんだ」と語っていたのを思い出す。
カラダ地区の裏通りにしゃれたレストランがあるのでそこで夕食。大通りは壁に囲まれて異様な雰囲気だが、一筋街中に入ると、普段どおりの市民生活が存在する。
おそらく戦時中の日本もそうだったのではないか?「OO地区が空爆された」という情報が流れても、逃げるところがないので、粛々と日常生活を続けるしかない。
翌朝、ホテルの窓からチグリス川を眺めていると、やはり飛行船が不気味に飛んでいる。飛行船を撮影していると、「バタバタバタ」という轟音とともに2機のヘリ。昨日の爆破テロがあった辺りを旋回している。4年前は米軍が戦車で現地確認していたのだが、いまは戦車ではなく、ヘリで上空から行うしか方法がないようだ。
オマルにバグダッドでの日常生活をたずねていると、またまた「バン!」という乾いた爆発音。あわてて窓から外を確認するが、窓とは逆方向で爆発があった模様。
「ユージュアル(普通のことだ)」とオマル。ウー、ウーとパトカーのサイレン音が聞こえるが、ホテルの従業員も宿泊客も誰も驚いていない。
オマルと街へ出る。ビデオカメラを隠しながら撮影の機会をうかがうが、難しい。テロで破壊されたビルを車内から撮影。外へ出て撮影したいのだが、壊れたビルの前には数人の警官がいて、オマルが許可を求めるが、「外へ出ての撮影」は許可されなかった。
PUKのバグダッド本部へ。この建物の中に入っているときだけ、少し安心する。ここであらかじめ連絡を取っておいた、イサーム・ラシードと面会。
イサームはイラク人ジャーナリストで、私のDVD「戦場からの告発」「ジャーハダ」に、彼の撮影した映像を一部使用している。
「ニシさん、よく来たね」「イサーム、会いたかった」しばし抱擁。
イサームから日本へのメッセージを撮影する。彼は日本の支援者への感謝を口にするとともに、最後に「まいど、おおきに」。ちなみに「イラクの子どもを救う会」からの募金で、毛布などを配るときには、彼は袋に「MYDO OKINI」と書いて配布する。高遠さんらのグループからの募金で配布するときには「ARIKATO」である。ちゃんと方言を使い分けているのだ。
スレイマニアに帰る時間が迫ってきた。市内から空港まで後部座席で身をかがめるようにして突っ走る。かなりの数のチェックポイントをクリアし、空港へのだだっ広い国道に入る。「注意!この道で駐停車すれば、テロリストに襲われる危険」との赤い看板。「テロリストではなくて、米軍に襲われる」やろ、と思わず苦笑い。実際米軍は不審者に対してためらわず発砲してくる。一番恐ろしいのは米軍なのだ。
10箇所以上の検問を無事通過し、空港へ。これで一安心。この空港には非常口ではなく「シェルター」なる看板がある。武装勢力の攻撃を想定して「シェルター」を備えている空港は、世界でここだけではないだろうか?
ということで、一泊二日のバグダッド行きは、無事に終了した。まだまだ治安は安定していないが、何とか潜入取材が可能だということが分かった。次回再訪するときは、さらに治安が安定していることを望む。
★西谷氏のバクダッドの速報は今回で終了します。次回からは激戦地モスルの潜入報告を紹介します。(ネット虫)
「今日から激戦地モスルへ潜入する。モスルは今やバグダッドより危険な街で、米軍の空爆が連続的に行われているし、アルカイダもモスルに集まってきている。人口300万人の、イラク第3の大都市であるが、市内中心部は100メートルごとにチェックポイントがあり、地元住民もめったなことでは出歩かない「ゴーストタウン」と化した街である。」(西谷さんの報告から)