私の家に『百福図』の掛け軸がある。
箱書に「有福」庚辰春日 贈中野兄 浄書表装 稲葉政吉と書き込まれてある。
稲葉政吉兄は私の戦友の一人で、平成十二年に彼から贈られたものである。
昭和二十年私は中国石家荘の陸軍部隊にいた。十二月中国から帰還した。
佐世保から引き上げ列車に乗り三日掛かって東京に着いた。
列車の中で朝から晩まで、これからの人生を語りあった戦友のひとりが
この稲葉兄であった。
東京都新宿区大京町斉藤茂吉病院のすぐ裏に住んでいた。
東京に帰ってすぐここを訪ねた。
焼け野原の地下壕の中から元気な顔が表れた。
戦後はここに家を建て生涯住んでいた。純粋な江戸っ子であった。
戦後東京近辺の戦友七名で五十年間戦友会を続けてきた。
平成七年、東京で開いた戦後五十周年の戦友会で五十年ぶりに、
秦、荒関両氏を迎えた。
北海道稚内在住の荒関氏の希望で、次回の戦友会を稚内で開くことを約束した。
平成十年六月。五十周年戦友会を記念して、昔と同じように
夜行列車に乗って一晩中語り明かそう。
そんな思いが上野から稚内往復鉄道の旅となった。
上野駅発夜行寝台車には四名が参加、この時の稲葉兄は、
元気に昔と変わらない口調で自分の戦後五十年の物語を、
たっぷりと私達に語り聞かせた。
稲葉兄から『百福図』のことを聞いたのは、この稚内で開いた戦友会で、
荒関氏宅を訪ねたとき、床の間の掛け軸に『百福図』があった。
稲葉兄はこの『百福図』を自分で書いて、
手作りの表装をして何枚かを知人に贈っている。
私も『百福図』をぜひ欲しいと申しいれた。
「福」は古代より吉祥文字の代表とされ、「福」を百の字体により表記した
『百福図』は古代中国から伝来、「開運招福」として珍重されている。
『百福図』は百の「福」を贈る人にも、
贈られる人にも与えることができるといわれている。
稲葉兄の『百福図』は、偶然から生れた。
ある日彼が雑誌を読んでいると、企業の広告に『百福図』の写真を見つけた。
企業を訪れ、『百福図』の原図が欲しいと申しいれた。
後日、原図のコピーを手にした。
それから親しい友人に自筆自表装の『百福図』を贈り続けてきた。
完成日時は予定できないが、私にも『百福図』を贈る約束が
稲葉兄と北海道で出来上がった。
平成十三年に東京で戦友会が開かれたが稲葉兄は、
自宅でケガをして出席はできず『百福図』を贈られたお礼を、
直接会ってすることができなかった。
平成十四年夏逝去の通知。享年八十歳。
我が家の『百福図』を眺めながら生前の稲葉兄に会って、
贈られた『百福図』のお礼が言いたかった。
いま悔やまれる毎日である。
贈られた百福と稲葉兄の百福を合わせて、
二百歳まで私は生きて行かなくてならないと決意した。
福を贈り続けた稲葉兄は、百福に囲まれて
天国の階段を登っていったであろう。