保安院の大罪(11) 「罪に罪を重ねる」その2 文科系
昨日の続きです。長谷川幸洋氏は、経産省役人に対して本当に怒っている。こんな説明さえ付けて。『私が書いた署名記事をめぐって役所から、こんなあからさまな圧力を受けたのは初めてのことである』。そこで、海江田万里経済産業相に問題をぶつけることにした。するとまた、返ってきた回答がとんでもない代物。自分らの蛮行を嘘でねじ曲げて正当化したのである。
こうして長谷川氏の出した結論がこうだ。『官僚の世界では、自分たちの既得権益を守るために戦った人間は、たとえ世間で批判されても、かえって評価されるのだ。そういう官僚こそ「黒光りする」と言って、誉めたたえるのが「霞が関の掟」である』。
【 責任転嫁をした回答
国民の税金を使って仕事をしている政府の人間が新聞の論説委員に対して、言論内容をめぐって圧力をかけるとは許しがたいことだ。 私は10年以上、論説委員をしているが、私が書いた署名記事をめぐって役所から、こんなあからさまな圧力を受けたのは初めてのことである。私自身は無言の圧力を受けたからといって、経産省と裏取引をしたり、筆を曲げるつもりはまったくない。それは5月27日付コラムで「こういう役所はいらない」と書いたとおりである。
だが、取材記者のことは気になった。論説と編集は互いに独立しているとはいえ、記者に対する取材制限が私のコラムに原因があるのはあきらかだったからだ。そこで考えた末、海江田万里経済産業相に問題をぶつけることにした。事務次官や官房長を直撃する手も考えたが、彼らも同じ官僚である。いくら攻めても、時間の無駄になる可能性が高い。政治家である大臣の見解が聞きたいと思ったのだ。私が大臣サイドに接触し事情を説明すると、話を聞いた担当者はその場で「それは広報の対応がまったくおかしい。すぐ調べます」と答えた。
すると、まもなく担当者から驚くべき回答が返ってきた。広報室長は大臣室からの問い合わせに対して、こう答えたというのだ。
「東京新聞記者の取材制限をしているのではない。その記者は自主的に懇談出席を見合わせているのです」
自分たちが取材制限しておきながら、大臣室が介入してきたと知ると「それは記者の判断です」と言い逃れしたのである。責任転嫁こそが官僚の常套手段とは知っていたが、こうまで平然と居直られると、まったく開いた口がふさがらない。
ふざけた話である。と同時に、官僚のばかさ加減にあきれた。
そもそも、どうしてこんな事態になったかといえば、私から逃げ回る一方で、こそこそと陰に回って圧力をかけようとしたからだ。自分たちの行動について、よく考えもせず「ちょっと脅せば黙るだろう」くらいのつもりで記者を出入り禁止にした。こうしたケースでは、従来から官僚がよく使う「脅しの手段」だったからだ。論説委員と編集の取材記者の違いくらいは当然、知っていたが「どうせサラリーマン。似たようなもんだ」となめてかかったのである。
良くも悪くももう少し有能な官僚なら、具体的な行動を起こす前に論理と正当性をしっかり詰める。しかも余計なことは一切、言わない。徹底的に問題点を詰めることこそが官僚の能力であるからだ。それを私はこれまでも体験してきた。しかし、今回はそうではなかった。
原発事故への対応とそっくり
上司への抗議も出入り禁止処分も、おそらく広報室長1人の判断ではない。直接の上司である官房長はもちろん事務次官にも判断を求めていたはずだ。なぜなら、彼らこそが記者と懇談する「経産省幹部」であるからだ。ところが、それでもブレーキはかからず、突っ走ってしまった。その挙げ句、私に真正面から問われると、沈黙する以外に方法がなくなってしまったのである。
これは大げさでなく、経産省の原発事故への対応と似ている。
原発を推進する資源エネ庁と安全監視する原子力安全・保安院が同じ経産省にぶら下がっていたことがなれ合いを生んで、事故の遠因になった。これは事故発生直後から、私を含めて多くの識者が指摘してきた。ところが、マスコミや国会でその点を質されても、経産省はのらりくらりと逃げ回り、国際原子力機関(IAEA)が調査団を派遣して問題を指摘するに至って、ようやく「保安院の切り離し」を認めた。「もう逃げられない」と観念して、初めて渋々と動く。しかも、保安院切り離しについて国民への説明の前に、IAEAに対する日本政府の報告書の中で認めたのである。いかに政府が国民を無視しているかの一例だ。
今回の出入り禁止処分問題も、これとまったく同じような経過をたどった。
大臣室からの指摘を受けて、広報室長は先週、ようやく東京新聞記者の出入り禁止処分を解いた。しかも、こっそりと。当事者である私に対する説明は一切なく、大臣室にだけ報告していたのである。これも相手に言わせれば「記者が独自に懇談出席自粛をやめたのです」とでも言い逃れるのだろう。ようするに、出入り禁止処分自体をなかったことにしたいのである。
「黒光り」する官僚
問題の本質ははっきりしている。私が「論説委員のコラムが原因で記者の取材制限をするのは、大げさでなく言論に対する圧力だ」と指摘すると、大臣室の担当者は黙って頷いていた。
以上が騒動のてんまつである。役所は自分たちの都合が悪い記事が出ると、平気で記者を出入り禁止処分にする。それで旗色が悪くなると、話そのものをなかったことにしようとする。とても先進国では考えられない事態である。霞が関の能力低下はここ数年、とみに目立っていたが、ここまで落ちぶれてしまったのである。
最後に今回、広報室長の実名を書かなかったのは、彼の立場に同情したからではない。それはこういう事情だ。
読者の中には「なにも実名で書かなくても」と思われた向きもあるかもしれない。「彼も上司との板ばさみになっているんだろう」とツイッターで伝えてくれた読者もいる。ネットのような公開の場で批判されれば、彼の将来に傷がつくと心配する人もいる。
まったく逆である。
官僚の世界では、自分たちの既得権益を守るために戦った人間は、たとえ世間で批判されても、かえって評価されるのだ。そういう官僚こそ「黒光りする」と言って、誉めたたえるのが「霞が関の掟」である。
官僚の世界は世間の常識が通用しない。それほど暗闇の奥が深い。ちなみに「黒光りする」という霞が関でしか通用しない隠語の意味を私に教えてくれたのは、彼自身もまた官僚と戦った元首相である。
広報室長の将来を案ずる必要はまったくない。逆に、これで勲章が一つ付いたようなものだ。私は彼を「官僚のヒーロー」にする手伝いをするつもりはない。だからこそ、彼の実名はもう書かないのである。 】