朝鮮日報が対馬海峡を渡った記者のコラムを載せていました。
私も、去年、同じように海峡を往復したので、とても面白く読みました。
ちょっと長いですが、紹介します。
少し前、釜山から船に乗って福岡を訪れた。
韓国東海岸を南下して福岡へ向かうというルートをたどった。
船で海峡を渡ったのは、14年ぶりだった。
14年前、下関と釜山を結ぶフェリーは、行商の中年女性の専用船に等しかった。
間仕切りのない広い船室では、中年女性数百人が床に荷物を並べていた。
荷物というのは、ものすごい数の商品を詰め込んだ箱だ。
女性たちは一斉に箱から商品を取り出し、宝物のように1カ所に集めた。
箱は箱で折り畳んで別の場所にまとめた。
1時間が過ぎると、体より大きかった荷物は、
風呂敷の中にすっぽりと収まってしまった。
中身は、当時韓国への輸入が禁止されていた日本製の電化製品だった。
作業を終えると、女性たちは一斉に弁当を広げた。
騒がしい話し声と共に、酸っぱいキムチの匂いが船室いっぱいに広がった。
フェリーの広い船室の中で、行商人以外の乗客は、一人旅の私と、
向かい側に座っていたバックパッカーの日本人大学生4人だけだった。
大学生たちは船室の片隅に固まったまま、あっけにとられていた。
中年の男性が船室に入ってくると、日本語で何やらわめき始めた。
酒に酔ってしどろもどろだったが、おおむね次のようなことを言っていた。
「日本の製品に目がない韓国人、そしてそれを行商として運ぶあんたたちよ」。
その声は軽蔑の念に満ちていた。
女性たちは静かに耳を傾けるだけだった。
日本の電子製品を船で運ぶということに後ろめたさを感じていたからだろうか。
古い世代の韓国人ほど、大韓海峡を行き来する船に乗っているときの感情は痛切だっただろう。
小説家の沈薫は、1930年に発表した詩『玄界灘』で、
関釜連絡船の情景を次のように描写した。
「客室に下りてみると、漫然渡航の白衣群だ/
足の指を無理やり足袋に押し込んで/まげを切った頭には帽子をかぶり/
捨てられた食べ残しの弁当をのそのそとはいながら/
犬のようにむさぼる若者たちよ」
こうした光景は今や、遠い昔の出来事になった。
日本の電子製品を運び込んでいた行商人も、10年前には姿を消した。
最近では、大韓海峡を行き来するフェリーの乗客は、
韓日両国の家族旅行客や団体旅行客、若いバックパッカー、
引率者付きの学生たちがほとんどだ。
釜山から福岡を訪れると、中年男性はゴルフを、家族はキャンプを、
女性はショッピングを、若者たちはラーメン屋巡りを、それぞれ楽しむのだ。
沈薫が大韓海峡を渡った1930年当時、韓国は日本の植民地だった。
14年前、韓国の1人当たりの所得は日本の3分の1にすぎなかった。
だが現在は、およそ半分の水準に近づいた。
このペースが続けば、20年以内に韓国人は日本人と同等の経済力を持つことになる。
そのころには、今回一緒に旅行した3歳の子どもが成人になっている。
わが子は日本との格差を全く感じることなく、何も考えずに海峡を渡るだろう。
韓国が最終的に日本を克服するというのは、
日本に対して特別な意識を持たなくなることではないかと思う。
韓国と日本、互いの国を行き来する訪問客は、年間500万人に達する。
これは、韓国の現代史を繁栄に導く大きな流れの一部となっている。
この中には鬱陵島を目指すペテン師が何人かまぎれていることもあれば、
相手の心情を害する人物が潜んでいる可能性もある。
だが、こうした人間がどんなに躍起になっても、
その存在は広大な川面に落ちた一滴の濁り水にすぎず、
歴史の流れの中でその濁りは薄まってゆく。
犬はほえてもキャラバンは進むのだ。
韓国の感じ方も、ようやく変わってきたのを感じさせてくれます。
大人のお付き合いが出来る時代がきたようです。
日本は老人、韓国は中年かな?
では中国は?何歳?
私も、去年、同じように海峡を往復したので、とても面白く読みました。
ちょっと長いですが、紹介します。
少し前、釜山から船に乗って福岡を訪れた。
韓国東海岸を南下して福岡へ向かうというルートをたどった。
船で海峡を渡ったのは、14年ぶりだった。
14年前、下関と釜山を結ぶフェリーは、行商の中年女性の専用船に等しかった。
間仕切りのない広い船室では、中年女性数百人が床に荷物を並べていた。
荷物というのは、ものすごい数の商品を詰め込んだ箱だ。
女性たちは一斉に箱から商品を取り出し、宝物のように1カ所に集めた。
箱は箱で折り畳んで別の場所にまとめた。
1時間が過ぎると、体より大きかった荷物は、
風呂敷の中にすっぽりと収まってしまった。
中身は、当時韓国への輸入が禁止されていた日本製の電化製品だった。
作業を終えると、女性たちは一斉に弁当を広げた。
騒がしい話し声と共に、酸っぱいキムチの匂いが船室いっぱいに広がった。
フェリーの広い船室の中で、行商人以外の乗客は、一人旅の私と、
向かい側に座っていたバックパッカーの日本人大学生4人だけだった。
大学生たちは船室の片隅に固まったまま、あっけにとられていた。
中年の男性が船室に入ってくると、日本語で何やらわめき始めた。
酒に酔ってしどろもどろだったが、おおむね次のようなことを言っていた。
「日本の製品に目がない韓国人、そしてそれを行商として運ぶあんたたちよ」。
その声は軽蔑の念に満ちていた。
女性たちは静かに耳を傾けるだけだった。
日本の電子製品を船で運ぶということに後ろめたさを感じていたからだろうか。
古い世代の韓国人ほど、大韓海峡を行き来する船に乗っているときの感情は痛切だっただろう。
小説家の沈薫は、1930年に発表した詩『玄界灘』で、
関釜連絡船の情景を次のように描写した。
「客室に下りてみると、漫然渡航の白衣群だ/
足の指を無理やり足袋に押し込んで/まげを切った頭には帽子をかぶり/
捨てられた食べ残しの弁当をのそのそとはいながら/
犬のようにむさぼる若者たちよ」
こうした光景は今や、遠い昔の出来事になった。
日本の電子製品を運び込んでいた行商人も、10年前には姿を消した。
最近では、大韓海峡を行き来するフェリーの乗客は、
韓日両国の家族旅行客や団体旅行客、若いバックパッカー、
引率者付きの学生たちがほとんどだ。
釜山から福岡を訪れると、中年男性はゴルフを、家族はキャンプを、
女性はショッピングを、若者たちはラーメン屋巡りを、それぞれ楽しむのだ。
沈薫が大韓海峡を渡った1930年当時、韓国は日本の植民地だった。
14年前、韓国の1人当たりの所得は日本の3分の1にすぎなかった。
だが現在は、およそ半分の水準に近づいた。
このペースが続けば、20年以内に韓国人は日本人と同等の経済力を持つことになる。
そのころには、今回一緒に旅行した3歳の子どもが成人になっている。
わが子は日本との格差を全く感じることなく、何も考えずに海峡を渡るだろう。
韓国が最終的に日本を克服するというのは、
日本に対して特別な意識を持たなくなることではないかと思う。
韓国と日本、互いの国を行き来する訪問客は、年間500万人に達する。
これは、韓国の現代史を繁栄に導く大きな流れの一部となっている。
この中には鬱陵島を目指すペテン師が何人かまぎれていることもあれば、
相手の心情を害する人物が潜んでいる可能性もある。
だが、こうした人間がどんなに躍起になっても、
その存在は広大な川面に落ちた一滴の濁り水にすぎず、
歴史の流れの中でその濁りは薄まってゆく。
犬はほえてもキャラバンは進むのだ。
韓国の感じ方も、ようやく変わってきたのを感じさせてくれます。
大人のお付き合いが出来る時代がきたようです。
日本は老人、韓国は中年かな?
では中国は?何歳?