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新聞の片隅に載ったニュースから(136)   大西五郎

2014年02月20日 19時08分21秒 | Weblog

 米国で靖国参拝擁護 本田内閣官房参与 神風特攻隊例に(14.2.20 朝日新聞)

  米紙ウォールストリート・ジャーナルは19日付の電子版で、安倍晋三首相の経済ブレーン・本田悦朗内閣官房参与のインタビューを掲載した。同紙によると本田氏は、太平洋戦争末期に米艦に体当たりした神風特攻隊について「日本の平和と繁栄は彼らの犠牲の上にある。だから安倍首相は靖国へ行かなければならなかったのだ」と語ったという。

 同紙は本田氏が「第2次大戦中の神風特攻隊の『自己犠牲』について語りながら、涙ぐんだ」と説明。本田氏は「日本の首相が靖国参拝を避けている限り、国際社会での日本の立場は非常に弱い」として、「われわれは重荷を背負った日本を見たくない。自立した国としての日本を見たい」と語ったという。

 また、同紙は「本田氏はアベノミクスの背後にナショナリスト的な目標があることを隠そうとしない。日本が力強い経済を必要としているのは、賃金上昇と生活向上のほかに、より強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだと語った」とも伝えた。

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 またまた安倍ブレーンのちょっと危険な発言です。

本田悦朗という人は東大を出て大蔵省に入省し、関税企画官や財務総合研究所の研究部長などを務めた後、外務省にも出向し、在米日本大使館の公使にもなりました。2012年に静岡県立大学国際関係研究科教授に転じ、第二次安倍内閣の発足と同時に内閣官房参与も兼務しています。

安倍首相とは親密な関係にあり「アベノミクスの真実」(幻冬舎)という本も書いています。

 「日本の平和と繁栄は彼ら(特攻隊員)の犠牲の上にある」と言い、特攻隊について語りながら涙ぐんだといいますが、特攻隊を賛美しているのでしょうか。確かに特攻隊の人たちはわが身を犠牲にしました。私もその人たちを慰霊したいと思いますが、特攻隊を崇める前にそのような無謀な作戦を企画し、命令した指導者こそ糾弾されるべきではないでしょうか。

 「日本の首相が靖国参拝を避けている限り、国際社会での日本の立場は非常に弱い」とは何を意味するのでしょうか。首相の靖国参拝には中国、韓国ばかりではなく、多くの国からA級戦犯が祀られている神社への参拝は帝国主義的な侵略戦争を行ったことへの反省がないからだと批判を受けていますが、「A級戦犯に詣って何が悪いと開き直れ」とでも言っているのでしょうか。

 「アベノミクスには、力強い経済にしてより強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするという考えがある」というのも日本国憲法を無視した言い分です。

 きのう№135で紹介した衛藤首相補佐官の「われわれがアメリカに失望した」という発言は菅

官房長官が首相と協議の上削除を指示し、動画サイトから削除されたと各新聞が伝えていました。

閣僚の一人は「首相の周囲にちょっと自由な発言する人が多い」と言った(20日毎日新聞)そうですが、安倍首相好みの人物ばかりを要職に起用していることがこういう結果を招いています。

                                      大西 五郎

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安倍思想、誤りの根源  文科系

2014年02月20日 11時50分11秒 | 国内政治・経済・社会問題

 話を分かりやすくするために、最初に標題のことの結論を述べておきたい。こういうことである。安倍の言う「国」は、僕に言わせれば実体のない空想的な架空の産物である。まー龍とかゴジラみたいなものだ。そんなものを国民に押しつけるというのは、どこか狂っていると言えるほどにおかしいことである。彼はいつも「靖国参拝は間違っていない」と言い続けてきた。その理屈を常にこう語って。『国のために死んだ人にお参りするのは正しい行いであり、人として当たり前の行為である』。この「国」こそ安倍が最も執着しているものだ。第一次安倍内閣は、教育基本法を変えてまで「我が国と郷土を愛する」を、新たな教育目標に加えている。

 さて、国とはなにか。郷土、先祖、歴史、それとも国家? 日本という国の前の3つにも人によって好き嫌いはあろうが、国家となるともう人の解釈、賛否は大きく別れるだろう。最も良い例がこれ、戦前と戦後の国家の断絶を考えてみよう。戦前は天皇の国家、戦後は国民の国家と変わったはずだ。国家の主人公がこんなに変わったのに、「同じ国(家)」とはたして言いうるのか。これが僕の言い分である。戦前の国事殉難者は天皇のために死んだのであり、戦後の国事殉難者は国民のために死んだのだ。とすれば人によりこう言いたいはずである。
『戦後の靖国祭神にはお参りしても良いが、戦前のそれへのお参りはちょっと・・・』
 こうして、戦後の国事殉難者を明治天皇が天皇のために死んだ人々を祭るべく作った靖国神社に祭る事自身が、誤りだったのだと言いたい。当然の理屈だろう。僕のために死んでくれた人と、僕の祖父母や父母が彼の道具にしか過ぎなかったところの天皇のために死んだ人とは、僕にとっては全く違った存在だからである。ちょっと譲って戦前殉難者自身にもお参りはしてもよいとしても、その霊が靖国にあるとなると、躊躇する事になる。天皇のために死んだことをこそ称賛する事になるからである。

 とこのように考え、述べた時、安倍の言う「国」とは龍かゴジラに転化するのである。安倍が、戦前と戦後を同じ「国」と見うるのは、天皇主権国家も国民主権国家もごちゃごちゃにできるからだ。つまり、後者が曖昧だからだ。そんな彼に対して、僕は以上のような主張でもって二つは別物、ごちゃごちゃにはできないと言う。そんな僕から観れば、安倍の言う「国」は龍かゴジラのような、人間によくある空想の産物にしか見えないのである。そして僕も国の主人公なのであるから僕の国家観を持つ事は自由であり、これほど大きな問題について時の国権でもって一つの解釈を主権者に押しつけるのは完全な誤りであると主張したい。たまたま選挙で多数派になった政治家らが、国の主人公である人々の心にそこまで立ち入る事が出来るのかということである。

 こうして、新教育基本法の教育目標新設は誤っている。国を愛することをば、誰も他人に強要する事など出来ないのである。そんなことは、国の主人公である国民1人1人の心に委ねるべき問題である。それどころか、得体の知れぬ国を愛せよなどという政治家の主張はむしろ、その時々の国家に批判的になるなというようにさえ聞こえる。ちなみに、国家の悪行に国民は良く注意しておれというのが現代憲法の立憲主義の精神であるが、安倍はこれを覆して国家による国民の善導に執心している事もまた明らかだ。ちなみに、「公益」、「公の秩序」が自民党改憲草案のあらたな大柱になっている。こういう国家観は、時の政治家をば、国家の主人公である国民の上に置くような考え方以外の何物でもないと思う。

 こうして、安倍の語る「戦後レジームからの脱却」とは、国民を政治家たちよりも低い存在と観て、国家とその国民主権の側面とを曖昧にする思想であると言いたい。自分らを何様だと考えているのだろうか。

コメント (7)
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