庄野潤三 編「小沼丹 小さな手袋 / 珈琲挽き」みすず書房(2002/2)
は,今年 2022/4 に新装版がでていた.格調高く 素っ気なく かっこいいカバーデザインだが,みすずの本らしく 高い !
「小さな手袋」(1976 小澤書店)「珈琲挽き」(1994 みすず書房) はそれぞれが独立したエッセイ集であった.もともとは正字だったのが新字になっているが,旧仮名遣いは変わっていない.独特な漢字の使い方は保たれている.「小さな手袋」は講談社文芸文庫にある.
一編が 3-6 ページで,拾い読みしているうちに読了してしまった.内容の一部は「小沼 丹による日夏 (耿之介) 先生像」として紹介したが,あのように受け売りしたくなる内容が満載である.
エッセイ集ということになっているが,「小さな手袋」は短編小説のようなあじわひ (と,旧かなを使ひたくなるあじわい) .他のエッセイもオチ (と言うのかな,とにかく最後の一行) がうまい.何か例をと思ったが,引用すると「...日夏先生像」のブログくらい長くなりそうなのでやめておく.
どこまでも のんきで深刻に堕ちないところがいい.でも数年前に読んだ「木菟燈籠」はもっと悲観的だった気がする.
裏カバーに編集に当たった庄野の文章****
「小説もいいし、随筆もいいという作家はそんなにいない。先ず浮ぶのは井伏鱒二。その次に、学生のころから井伏さんが好きで師事していた小沼丹がいる」
「何がそれほど惹きつけるのか。何が親しみと共感のうちにやがて深い喜びと安らぎをもたらすのだろう。誠実味だろうか。腕白とユーモアだろうか。決して愚痴をこぼさない男らしさだろうか。詩的感受性の細やかさだろうか。
東西の文学、芸術から吸収して当人の気質に融け込ませてしまった教養の力だろうか。
悠々としているところだろうか。
つまるところは才能というほかないのである」*****
「何がそれほど惹きつけるのか。何が親しみと共感のうちにやがて深い喜びと安らぎをもたらすのだろう。誠実味だろうか。腕白とユーモアだろうか。決して愚痴をこぼさない男らしさだろうか。詩的感受性の細やかさだろうか。
東西の文学、芸術から吸収して当人の気質に融け込ませてしまった教養の力だろうか。
悠々としているところだろうか。
つまるところは才能というほかないのである」*****
この本では井伏鱒二は清水町先生として登場したりする.
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