【筆洗】:戦争中の家族を描く井上ひさしの「きらめく星座 昭和オデオン堂物語」にすき焼きをめぐる場面がある
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【筆洗】:戦争中の家族を描く井上ひさしの「きらめく星座 昭和オデオン堂物語」にすき焼きをめぐる場面がある
▼物のない時代。幸運にも手に入れた牛肉を前に家族らが考え込む。すき焼きをしても大丈夫か。匂いが近所に漏れ、暴動が起こらぬか▼「経済警察にかけこんだ人のゐたんですつて」「あそこの家がなぜすき焼ができるのか、しつかり調べてくださいと密告したわけです」。いやな時代である▼すき焼き密告が分からぬでもない現在か。新型コロナウイルス対策の外出自粛。自分は守っているのに遊びに出かける人もいる、休業を要請されているのに営業している店もあるではないか。程度の差こそあれ、こうした不満はどなたにもあるだろう▼警察への一一〇番通報が増えている地域もあるそうだ。内容は「あの店が営業をしているのはけしからん」という類いらしい。自粛はあくまで要請であって、無視しても、違反ではなく、警察の出る幕ではないのだが、文句を言わなくては気が治まらなくなっているのか▼徳島などでは「疎開」を疑い、他県ナンバーの車に対する嫌がらせ行為も報告される。自粛要請に平然と背を向ける人も嘆かわしいが、不自由な生活の中で、人々が次第に余裕を失い、「正義」を振りかざす風潮があるとすれば、これもまた恐ろしい。あのすき焼きの時代と変わらぬ。マスクなしでも息苦しい。
元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【筆洗】 2020年04月26日 06:10:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。