会津の重ちゃん日記

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八重への桜 ~フィクション&ノンフィクションの狭間で~ 斗南藩

2013-12-21 16:51:58 | 地域情報
2013年12月21日(土)曇 1.7℃~-2.0℃

 NHK大河ドラマ「八重の桜」は15日に終わった。最後の場面は西郷頼母との再会。「桜は秋に散っても春には咲く・・」の頼母の言葉には会津の人間としては胸に迫るものがあった。本当にそのような再会があったかどうかは分からないがドラマとしては最高のシーンであった。


 昨年大河ドラマが始まる前に「山本八重」について東公民館の学芸員I氏の講座があった。多くの聴講生が集まり盛況であった。
今年ドラマが始まると方言(会津弁)について武士階級と庶民が同じような言葉を使っていたのだろうかというような違和感を覚えた人も多かった。そこで「八重への桜 ~フィクション&ノンフィクションの狭間で~」の自主クラブが5月にでき毎月1回開催した。
 今日の最終回では斗南藩を訪問された鶴ヶ城ボランティアガイドのIさんの資料をもとに話し合いこの講座の感想を各自述べて閉講した。
 斗南藩については児童用の図書「柴五郎ものがたり」(鈴木喜代春著)や「會津人・柴五郎の遺書」をもとにした「ある明治人の記録」(石光真人編著)も参考になりわかりやすい。(会津図書館にある)


 またネットで調べると
 『戊辰戦争後、新政府により藩主松平容保と全家臣が東京や越後高田で謹慎の身となった。
明治2年、版籍奉還が行われる中、会津松平家は再興を許されたが、領地として旧領内の猪苗代湖畔もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。その際「農業により領地の財政基盤を築け」との条件があったため、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。
新しい藩名は「斗南」と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住したが、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。斗南藩大参事山川浩、少参事広沢安任・永岡久茂らは農業施策を展開するが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出、蒸発するものもあった。しかし山川ら会津人は挫けず、斗南ヶ丘建設に始まる原野の開墾政策、斗南日新館による教育・人材育成に務めた。

明治4年、新政府は廃藩置県を実施、斗南藩も斗南県となり、藩知事だった松平容大も東京へ移住となった。山川らは斗南県の将来のため、財力のある弘前県との合併運動を進め、周辺五県が合併し青森県となった。しかし藩が消滅、藩主も失った不毛な斗南の地に希望を持てない会津人の多くがこれを機に全国に散って行ったために、軌道にのりかけた斗南藩の農業政策は瓦解した。
なかには旧斗南藩に留まり農業を続けた島影家、我が国初の洋式牧場を開設した広沢安任のような人物もいる。』