2015年12月6日(日)晴 7.8℃~4.0℃
「新宮熊野神社(長床)と新宮城址」
何日も雨が降り続き、雪やみぞれが降って灰色の空の日々が続いたが、やっと青空が見えた。気温は低くても青空の下では気分が高揚して活動的になれる。残っていた雪囲いをやり終えて安心して冬を迎えることができる。
会津では、黄葉・紅葉の季節は終わり、木葉が風に舞い雨でぬれ落ち葉となっている。
画像だけでも青空や黄葉・紅葉をみると、明るい気分になれる。
知人のメールやブログなどでそんな画像を目にするとほっとする。隣家の銀杏は、11月末まで黄葉が美しかった。
喜多方市の新宮熊野神社長床の銀杏の落ち葉は黄色の絨毯として大勢の人々を魅了している。
どうしてこの地にこのような国重要文化財の長床が残っているのでしょうね。
会津地方には、古代時代に「大塚山古墳群」「宇内青津古墳群」「雄国山麓古墳群」などがあり豪族が群雄割拠し大和朝廷と密接な関係を持っていた。
その後、飛鳥時代、奈良時代における仏教の伝播。恵日寺、勝常寺などの隆盛。そして平安時代後期に源頼義が戦勝祈願のために熊野神社を勧請した。
鎌倉時代には、南会津の長沼氏、河原田氏、山内氏、会津盆地には佐原一族の加納氏、新宮氏、北田氏、藤倉氏、猪苗代氏、葦名氏と鎌倉武士が治めていた。彼らは土地と民と交易の支配権を巡って、互いに争うようになった。
この長床の地には葦名氏に滅ぼされるまで新宮氏が支配していた。熊野神社の近くには新宮城址がある。よく見ると畑になっているところが、堀跡だったりすることに気付くはずです。新宮村中にもいろいろな遺構がある。見つけてみましょう。
會津芦名研究会の会員として7月26日新宮城址の発掘調査した方の案内で歩いてみた。本当に城址なのか、堀跡なのかわからなかったが、現地を歩き説明を受けると納得できた。興味のある方は、新宮城址標識のある駐車場に車を置いて歩いてみてみましょう。田畑や雑草地、村内なのでガイドがいないとわからないかもしれないが・・・。
※フリー百科事典によると新宮熊野神社は
平安時代後期の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後、寛治3年(1089年)後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという。この時、同時に熊野本宮社を岩沢村(喜多方市上三宮町)、熊野那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に遷座・造営したが、後年、この2社は新宮社に遷され、現在、神社には本宮・新宮・那智の3社が祀られている。
最盛期には300余の末社や寺院・霊堂が立ち並び、100人以上の神職がいたというが、12世紀末に越後の城長茂の押領により一時衰退した。その後、源頼朝によって200町歩の領田を与えられて再び勢力を取り戻した。奥州合戦後に会津を与えられた佐原義連の孫・時連は神社の北東に新宮城を築いて新宮氏を名乗り、これ以後約200年間会津盆地北西部(現在の喜多方市一帯)を支配することとなった。新宮氏は神社を守護神として崇め、多くの神器を寄進し、神社の保護に努めた。新宮氏が蘆名氏に滅ぼされると、後ろ盾を失ったことから神社は衰退していき、16世紀後半になると戦乱に巻き込まれた影響もあって社殿は荒れ果てたものになっていたという。
慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時に50石を支給されたが、慶長16年(1611年)の会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった。その後、慶長19年(1614年)、蒲生忠郷によってかつてのものよりも一回り小さい拝殿(長床)が再建され、会津松平氏時代は祈願所とされ、度々藩主の代参が行われた。明治時代初めに廃仏毀釈のあおりを受けて多くの仏像や文化財が失われてしまったが、神社は存続し、現在は神社近辺の集落住民で結成された保存会によって維持管理されている。
「新宮熊野神社(長床)と新宮城址」
何日も雨が降り続き、雪やみぞれが降って灰色の空の日々が続いたが、やっと青空が見えた。気温は低くても青空の下では気分が高揚して活動的になれる。残っていた雪囲いをやり終えて安心して冬を迎えることができる。
会津では、黄葉・紅葉の季節は終わり、木葉が風に舞い雨でぬれ落ち葉となっている。
画像だけでも青空や黄葉・紅葉をみると、明るい気分になれる。
知人のメールやブログなどでそんな画像を目にするとほっとする。隣家の銀杏は、11月末まで黄葉が美しかった。
喜多方市の新宮熊野神社長床の銀杏の落ち葉は黄色の絨毯として大勢の人々を魅了している。
どうしてこの地にこのような国重要文化財の長床が残っているのでしょうね。
会津地方には、古代時代に「大塚山古墳群」「宇内青津古墳群」「雄国山麓古墳群」などがあり豪族が群雄割拠し大和朝廷と密接な関係を持っていた。
その後、飛鳥時代、奈良時代における仏教の伝播。恵日寺、勝常寺などの隆盛。そして平安時代後期に源頼義が戦勝祈願のために熊野神社を勧請した。
鎌倉時代には、南会津の長沼氏、河原田氏、山内氏、会津盆地には佐原一族の加納氏、新宮氏、北田氏、藤倉氏、猪苗代氏、葦名氏と鎌倉武士が治めていた。彼らは土地と民と交易の支配権を巡って、互いに争うようになった。
この長床の地には葦名氏に滅ぼされるまで新宮氏が支配していた。熊野神社の近くには新宮城址がある。よく見ると畑になっているところが、堀跡だったりすることに気付くはずです。新宮村中にもいろいろな遺構がある。見つけてみましょう。
會津芦名研究会の会員として7月26日新宮城址の発掘調査した方の案内で歩いてみた。本当に城址なのか、堀跡なのかわからなかったが、現地を歩き説明を受けると納得できた。興味のある方は、新宮城址標識のある駐車場に車を置いて歩いてみてみましょう。田畑や雑草地、村内なのでガイドがいないとわからないかもしれないが・・・。
※フリー百科事典によると新宮熊野神社は
平安時代後期の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後、寛治3年(1089年)後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという。この時、同時に熊野本宮社を岩沢村(喜多方市上三宮町)、熊野那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に遷座・造営したが、後年、この2社は新宮社に遷され、現在、神社には本宮・新宮・那智の3社が祀られている。
最盛期には300余の末社や寺院・霊堂が立ち並び、100人以上の神職がいたというが、12世紀末に越後の城長茂の押領により一時衰退した。その後、源頼朝によって200町歩の領田を与えられて再び勢力を取り戻した。奥州合戦後に会津を与えられた佐原義連の孫・時連は神社の北東に新宮城を築いて新宮氏を名乗り、これ以後約200年間会津盆地北西部(現在の喜多方市一帯)を支配することとなった。新宮氏は神社を守護神として崇め、多くの神器を寄進し、神社の保護に努めた。新宮氏が蘆名氏に滅ぼされると、後ろ盾を失ったことから神社は衰退していき、16世紀後半になると戦乱に巻き込まれた影響もあって社殿は荒れ果てたものになっていたという。
慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時に50石を支給されたが、慶長16年(1611年)の会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった。その後、慶長19年(1614年)、蒲生忠郷によってかつてのものよりも一回り小さい拝殿(長床)が再建され、会津松平氏時代は祈願所とされ、度々藩主の代参が行われた。明治時代初めに廃仏毀釈のあおりを受けて多くの仏像や文化財が失われてしまったが、神社は存続し、現在は神社近辺の集落住民で結成された保存会によって維持管理されている。