音楽やるのに、へたよりもうまいほうがいいって誰が決めたの??
…なんていうと、そんなの、誰が決めたも何も、当たり前じゃないかと言われそうだけれど。
←ゆるく多様に「うまいへたの軸」
「多くの民族音楽においては演じ手のうまいへたは多少あっても、そういう差をうまく吸収してしまう構造があります。いわば、音楽の免震構造がすぐれているわけです。ケチャでもガムランでもそうですが、多少うまいへたがあっても、そういうズレをまわりのみんなでなんとなく吸収してしまうわけです。もちろんものすごくじょうずなグループとそうでないグループもありますが、だからといってケチャやガムランが、そういう高度なテクニックを最終目標とするメンタリティの音楽かというけっしてそんなことはありません。」(「親のための新しい音楽の教科書」若尾裕著)
日本でも古くからあるお祭りとかで、うまかろうが下手だろうが、みんな一緒になって歌っているような場であれば、上手下手とか、ミスがいくつあったとか、そういうことが特に気にされてはいないわけです。
一方、私たちが日常で「趣味」としてかかわっている音楽というものは、本番でミスをしないために緊張したり、少しでもうまくなりたいといってそれ自体は楽しくない練習でもやるとか、拍子を数え間違いした人がいたのでアンサンブルが台無しになったとか(^^;; ま、そういう、「免震構造」が欠如したやたら脆弱な世界になってるのですね、いつの間にか。
特にステップやコンクールなどの明確に評価される場に出ようとしているのでなくても常に、漠然とではあれ、「うまいへたの軸」から逃れることはできず、またその軸のこっちの端へ、あるいはあっちの端へいくら辿っていっても、やはりその軸から逃れることはできない。
習いたての子どもどうしであっても…
そしてホロヴィッツであっても(笑)
「ホロヴィッツは弾き終えたあとにまわりのひとにその出来がどうであったかを実に不安そうに聞くのです。そしてあるひとが演奏ではなくてネクタイをほめようものなら、「彼女はぼくのピアノじゃなくネクタイをほめた」と即座にすねてみせます。つまりホロヴィッツみたいな一般には神様みたいに思われているピアニストですら、つねにへたくその恐怖にさらされているわけです」(同上)
音楽の「へたくそ」をめぐる議論というのがあって(ブフォン論争)、
ジャン=ジャック・ルソー vs ジャン=フィリップ・ラモーという「ジャンジャン対決」ですが、
「心意気さえあれば演奏のうまいへたなんか関係ない」と主張するルソー、
「音楽というのはきちんとしたプロフェッショナルがやるべきだ」と主張するラモー、
そして勝ったのは当然ながらラモーで。(注: 論争でラモー側が勝利したという意味ではなく、近代の西洋音楽では「うまくなきゃ」が正義になっているという意味らしい。いずれにせよ、この論争のとらえ方は若尾氏独自のものなのでそのまま覚えたりしないように)
確かに、「うまいへたの軸」にとらわれているのも窮屈だとは思いますが、ピアノなりヴァイオリンなり、どうもこの「ルソー/ラモー」以降の西洋音楽、それを明治以降に輸入し急速解凍したところの西洋音楽in Japanというのは、やはり技術だの知識だのあったほうがよけいおもしろかったり美しかったりするようにできてるみたいで、別に見栄を張るというのでなくても、ここから逃れることは難しいのではないかと感じます。(一足飛びに離れるには音楽のジャンルを変えるって手があるらしいですが…パンクロック(?)とか…よく知らないけど…)
それならどうすればいいのか。
ということに関連する漫画を昨日みつけました。ピティナのページにある「ピアノでお友だちに負けたくない!このキモチ、どうしたらいい??」です(子ども向け?)
この漫画でいうと、落としどころは、憧れ曲への気持ちを大切に、やれるところから、ていねいにゆっくりやるのが早道だよという…まぁ結局のところ、早道というのは「うまいへた」の軸に沿って「うまい」方向へと突き進んでいくことになるわけですが。そのうえで、人との比較にこだわることは早道ではない、と。
これはひとつの考えとしてわりと妥当だとは思うのですが。
大人の趣味ピアノであればちょっとこれとも違う面があると思います。
たとえば、「曲」というものが、難易度順に一直線に並んでいるものではないとか…
同じ曲をいろいろな人が弾いたとき、それぞれまったく違う部分に魅力が現れることなどです。
つまり、「うまいへたの軸」がぼけているというか、何本あるのかよくわからない軸があちこちてんでんばらばらの方向に向いているという感じです。
大雑把にいって、へたよりはうまいほうがいいのですが、
へたなら弾く意味がないってことはないし、
実際のところ、ある演奏が「うまへた軸」のどのへんに位置するかははっきりしないし、
あんまりそのことばっかりが意識に上らない程度、その人固有のこだわりポイントが見えてきれいだったりおもしろかったりする。
というくらいの。
「うまへた軸」があることは、よい面もあります。それは、長年やっててもそれによって違う景色が見えてくるから飽きないということであって、来るべき超高齢化社会における趣味ってのは、そういう奥行が絶対必要ですよね。別にわかりやすい一本のものさしで他人と比べる必要はないけれども。
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社 ←またろうがイラストを描いた本(^^)
「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
(今回もイラストはまたろう)
…なんていうと、そんなの、誰が決めたも何も、当たり前じゃないかと言われそうだけれど。
←ゆるく多様に「うまいへたの軸」
「多くの民族音楽においては演じ手のうまいへたは多少あっても、そういう差をうまく吸収してしまう構造があります。いわば、音楽の免震構造がすぐれているわけです。ケチャでもガムランでもそうですが、多少うまいへたがあっても、そういうズレをまわりのみんなでなんとなく吸収してしまうわけです。もちろんものすごくじょうずなグループとそうでないグループもありますが、だからといってケチャやガムランが、そういう高度なテクニックを最終目標とするメンタリティの音楽かというけっしてそんなことはありません。」(「親のための新しい音楽の教科書」若尾裕著)
日本でも古くからあるお祭りとかで、うまかろうが下手だろうが、みんな一緒になって歌っているような場であれば、上手下手とか、ミスがいくつあったとか、そういうことが特に気にされてはいないわけです。
一方、私たちが日常で「趣味」としてかかわっている音楽というものは、本番でミスをしないために緊張したり、少しでもうまくなりたいといってそれ自体は楽しくない練習でもやるとか、拍子を数え間違いした人がいたのでアンサンブルが台無しになったとか(^^;; ま、そういう、「免震構造」が欠如したやたら脆弱な世界になってるのですね、いつの間にか。
特にステップやコンクールなどの明確に評価される場に出ようとしているのでなくても常に、漠然とではあれ、「うまいへたの軸」から逃れることはできず、またその軸のこっちの端へ、あるいはあっちの端へいくら辿っていっても、やはりその軸から逃れることはできない。
習いたての子どもどうしであっても…
そしてホロヴィッツであっても(笑)
「ホロヴィッツは弾き終えたあとにまわりのひとにその出来がどうであったかを実に不安そうに聞くのです。そしてあるひとが演奏ではなくてネクタイをほめようものなら、「彼女はぼくのピアノじゃなくネクタイをほめた」と即座にすねてみせます。つまりホロヴィッツみたいな一般には神様みたいに思われているピアニストですら、つねにへたくその恐怖にさらされているわけです」(同上)
音楽の「へたくそ」をめぐる議論というのがあって(ブフォン論争)、
ジャン=ジャック・ルソー vs ジャン=フィリップ・ラモーという「ジャンジャン対決」ですが、
「心意気さえあれば演奏のうまいへたなんか関係ない」と主張するルソー、
「音楽というのはきちんとしたプロフェッショナルがやるべきだ」と主張するラモー、
そして勝ったのは当然ながらラモーで。(注: 論争でラモー側が勝利したという意味ではなく、近代の西洋音楽では「うまくなきゃ」が正義になっているという意味らしい。いずれにせよ、この論争のとらえ方は若尾氏独自のものなのでそのまま覚えたりしないように)
確かに、「うまいへたの軸」にとらわれているのも窮屈だとは思いますが、ピアノなりヴァイオリンなり、どうもこの「ルソー/ラモー」以降の西洋音楽、それを明治以降に輸入し急速解凍したところの西洋音楽in Japanというのは、やはり技術だの知識だのあったほうがよけいおもしろかったり美しかったりするようにできてるみたいで、別に見栄を張るというのでなくても、ここから逃れることは難しいのではないかと感じます。(一足飛びに離れるには音楽のジャンルを変えるって手があるらしいですが…パンクロック(?)とか…よく知らないけど…)
それならどうすればいいのか。
ということに関連する漫画を昨日みつけました。ピティナのページにある「ピアノでお友だちに負けたくない!このキモチ、どうしたらいい??」です(子ども向け?)
この漫画でいうと、落としどころは、憧れ曲への気持ちを大切に、やれるところから、ていねいにゆっくりやるのが早道だよという…まぁ結局のところ、早道というのは「うまいへた」の軸に沿って「うまい」方向へと突き進んでいくことになるわけですが。そのうえで、人との比較にこだわることは早道ではない、と。
これはひとつの考えとしてわりと妥当だとは思うのですが。
大人の趣味ピアノであればちょっとこれとも違う面があると思います。
たとえば、「曲」というものが、難易度順に一直線に並んでいるものではないとか…
同じ曲をいろいろな人が弾いたとき、それぞれまったく違う部分に魅力が現れることなどです。
つまり、「うまいへたの軸」がぼけているというか、何本あるのかよくわからない軸があちこちてんでんばらばらの方向に向いているという感じです。
大雑把にいって、へたよりはうまいほうがいいのですが、
へたなら弾く意味がないってことはないし、
実際のところ、ある演奏が「うまへた軸」のどのへんに位置するかははっきりしないし、
あんまりそのことばっかりが意識に上らない程度、その人固有のこだわりポイントが見えてきれいだったりおもしろかったりする。
というくらいの。
「うまへた軸」があることは、よい面もあります。それは、長年やっててもそれによって違う景色が見えてくるから飽きないということであって、来るべき超高齢化社会における趣味ってのは、そういう奥行が絶対必要ですよね。別にわかりやすい一本のものさしで他人と比べる必要はないけれども。
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社 ←またろうがイラストを描いた本(^^)
「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
(今回もイラストはまたろう)