またろうの古文のテスト範囲の中に、「百人一首」と「助詞・助動詞」というのがあって…
係り結びが出るって書いてあったから、
「ぞ・なむ・や・か・こそ」
があったら注目!! ここから係って、「こそ」は已然形、ほかのは「連体形」で結びというのを練習させていた。だいたい見つけられるようになったとは思うのだけど、試験の比重としては「奥の細道」の知識問題(「国破れて…」は誰の言葉かとかそういうの)が大きくて、玉砕した。まぁそれはともかく。
私がただ遊び呆けていた中学三年生のとき、この「百人一首」を題材にした古文の文法と出会ったことは、後の仕事を決めるときにも大きな影響があったんだけど、その手前で大学受験の勉強を進めるうえでも「核」となる出来事だった。
なぜ、仮にも理系受験なのに古文の文法が「核」!? というあたりを今日は書いてみたいと思う。
そもそも、文法って、現代文の文法を習っているあたりでは、何がうれしいのかちっともわからんというのが相場。だって、文法なんて知らなくたって、読めるし書けるしね。いーじゃんというわけである。
だから、文法が役に立つことを実感できるのは、古文を習ったときが最初だったのだ。あ、そういえば英文法というのもありましたね。でも、中学の英語って、あまりにも初歩だからそんなに文法を意識しないでも済んでしまうというか、なかなかありがたみは感じにくいのだ。
古文は、今自分が操っている日本語と、似て非なる代物で、無理やり読めばなんとなくわかったようなところもあるけど、文法を知らなければやっぱりあちこち誤解しやすい。例えば簡単な話、「夏は来(き)ぬ」というのを、「カ変連用形+完了助動詞「ぬ」終止形」と分解できれば「夏は来た」ってことが明らかにわかるけど、「来(こ)ぬ」との違いがあやふやだったら、「来ないのか!?」(^^;; などと誤解しかねない、というようなことである。
中三のときの授業では、百人一首を題材に、「品詞分解」と「訳読」を徹底して習った。「品詞分解」というのは「名詞」「シク活用形容詞の連体形」「否定助動詞「ず」の連用形」とかのラベルをつけていくことだ。そして「訳読」は、「品詞分解」の結果をベースに、抜けがなく正確な直訳をつけていく作業である。
これはこなれた訳である必要はまったくなくて…というより、学習のベースとなる読み方の練習なので、こなしてはいけないというのがミソなのだ。
意味、さらには雰囲気がどうでもいいとはいわないけど、そっちから先に入るとたいてい「いいかげん読み」が発生して、「意訳」のつもりで「飛躍」「誤訳」「創作」が混じるもので、それは古文の解釈でも英文解釈でも同じ。
「品詞分解」でばらばらにしたパーツを、個々に置き換えてつなげるだけの訳文を作る練習からまずは入るのが正しい。「忍ぶれど色に出でにけり」といったら、「に(完了助動「ぬ」連用)」「けり(詠嘆助動「けり」終止)」と分解して、「に」の部分を「てしまった」と訳し、「けり」の部分を「なあ」と訳し、「出てしまったなあ」と訳しておくのである。
「出てしまった」と訳して「けり」の部分を飛ばしてしまったり、「出たなあ」などと「完了」だか「過去」だかわからないような訳し方をしてはいけない。あくまでも、正しく品詞分解できていることをアピールする訳をきっちり妥協なくつけていく。
(もうひとつの例は末尾に)
百人一首の中から、最初この授業をやるときは、ひとつひとつの説明に時間がかかり、こんなんでどうやって百首もと思ったが、時間がかかるのは最初のうちだけで、あとは繰り返し出でくる文法事項がほとんどになるから、どんどんスムーズに進められるようになる。
十首ずつ区切って小テストをやって、ひとわたり終わるころには、古文の文法も頻出の用語も、そしていつのまにか考え方や基礎知識、雰囲気もかなりわかるようになって、この貯金だけで古文は大学受験までノープロブレムになる。
なにしろ、この先いろいろな文章が出てくるにしても、誤解なく「訳読」できるスキルが身についていれば、あとはざっと流していれば十分。敬語のところだけちょっと足せば長文読解でも困ることはない。
そして、この「文法」から「訳読」へという流れを体験してあれば、まずは英語の勉強が楽になる。また、それだけではなくて…基礎をじっくりしっかりさせておけば、怖いものはないと実感できているのは大きい。あれこれの教材に手を出して、手間がかかるわりに成果が上がらない、焦る、というループに陥ることがなくなるからだ。
別に「核」は古文の文法でなくてもよく、それぞれ自分の性に合うものを元にすればよい。英語の場合も数学の場合も、歴史という人もいるかもしれないし、運動系部活が「核」になる場合もあるかもしれない。とにかく、どう勉強(練習)すればどうわかる・できるようになったかという「自分で信頼できる体験」をしておくことはたぶんどうしても必要だ。これがないと長時間勉強に頼るしかなく、受験勉強はただの消耗戦になってしまう。逆にこの「核」さえ持っておけば、別に急いで中学生から塾通いする必要はない。
英語の話とかはまたいずれ。
はなひめ昨日の勉強:
…なし。あれ??
----
例1 「(玉の緒よ)絶えなば絶えね」
例2 「侘びぬれば(今はた同じ)」
両方で助詞「ば」が使われているが、現代語で「やればできるのに」というときの「ば」にあたるものは、例1の方だけ。
例1は「絶え(ヤ行下二段連用)な(完了「ぬ」未然)ば(接続助詞)絶え(ヤ行下二段連用)ね(完了「ぬ」命令)」と、未然形につく「ば」なので「絶えてしまうならば絶えてしまえ」となる。
例2は「侘び(バ行上二段連用)ぬれ(完了「ぬ」已然)ば(接続助詞)」と、已然形につく「ば」なので、「悩み苦しんでいれば」としたら間違いで、「悩み苦しんでいるので」となる。
係り結びが出るって書いてあったから、
「ぞ・なむ・や・か・こそ」
があったら注目!! ここから係って、「こそ」は已然形、ほかのは「連体形」で結びというのを練習させていた。だいたい見つけられるようになったとは思うのだけど、試験の比重としては「奥の細道」の知識問題(「国破れて…」は誰の言葉かとかそういうの)が大きくて、玉砕した。まぁそれはともかく。
私がただ遊び呆けていた中学三年生のとき、この「百人一首」を題材にした古文の文法と出会ったことは、後の仕事を決めるときにも大きな影響があったんだけど、その手前で大学受験の勉強を進めるうえでも「核」となる出来事だった。
なぜ、仮にも理系受験なのに古文の文法が「核」!? というあたりを今日は書いてみたいと思う。
そもそも、文法って、現代文の文法を習っているあたりでは、何がうれしいのかちっともわからんというのが相場。だって、文法なんて知らなくたって、読めるし書けるしね。いーじゃんというわけである。
だから、文法が役に立つことを実感できるのは、古文を習ったときが最初だったのだ。あ、そういえば英文法というのもありましたね。でも、中学の英語って、あまりにも初歩だからそんなに文法を意識しないでも済んでしまうというか、なかなかありがたみは感じにくいのだ。
古文は、今自分が操っている日本語と、似て非なる代物で、無理やり読めばなんとなくわかったようなところもあるけど、文法を知らなければやっぱりあちこち誤解しやすい。例えば簡単な話、「夏は来(き)ぬ」というのを、「カ変連用形+完了助動詞「ぬ」終止形」と分解できれば「夏は来た」ってことが明らかにわかるけど、「来(こ)ぬ」との違いがあやふやだったら、「来ないのか!?」(^^;; などと誤解しかねない、というようなことである。
中三のときの授業では、百人一首を題材に、「品詞分解」と「訳読」を徹底して習った。「品詞分解」というのは「名詞」「シク活用形容詞の連体形」「否定助動詞「ず」の連用形」とかのラベルをつけていくことだ。そして「訳読」は、「品詞分解」の結果をベースに、抜けがなく正確な直訳をつけていく作業である。
これはこなれた訳である必要はまったくなくて…というより、学習のベースとなる読み方の練習なので、こなしてはいけないというのがミソなのだ。
意味、さらには雰囲気がどうでもいいとはいわないけど、そっちから先に入るとたいてい「いいかげん読み」が発生して、「意訳」のつもりで「飛躍」「誤訳」「創作」が混じるもので、それは古文の解釈でも英文解釈でも同じ。
「品詞分解」でばらばらにしたパーツを、個々に置き換えてつなげるだけの訳文を作る練習からまずは入るのが正しい。「忍ぶれど色に出でにけり」といったら、「に(完了助動「ぬ」連用)」「けり(詠嘆助動「けり」終止)」と分解して、「に」の部分を「てしまった」と訳し、「けり」の部分を「なあ」と訳し、「出てしまったなあ」と訳しておくのである。
「出てしまった」と訳して「けり」の部分を飛ばしてしまったり、「出たなあ」などと「完了」だか「過去」だかわからないような訳し方をしてはいけない。あくまでも、正しく品詞分解できていることをアピールする訳をきっちり妥協なくつけていく。
(もうひとつの例は末尾に)
百人一首の中から、最初この授業をやるときは、ひとつひとつの説明に時間がかかり、こんなんでどうやって百首もと思ったが、時間がかかるのは最初のうちだけで、あとは繰り返し出でくる文法事項がほとんどになるから、どんどんスムーズに進められるようになる。
十首ずつ区切って小テストをやって、ひとわたり終わるころには、古文の文法も頻出の用語も、そしていつのまにか考え方や基礎知識、雰囲気もかなりわかるようになって、この貯金だけで古文は大学受験までノープロブレムになる。
なにしろ、この先いろいろな文章が出てくるにしても、誤解なく「訳読」できるスキルが身についていれば、あとはざっと流していれば十分。敬語のところだけちょっと足せば長文読解でも困ることはない。
そして、この「文法」から「訳読」へという流れを体験してあれば、まずは英語の勉強が楽になる。また、それだけではなくて…基礎をじっくりしっかりさせておけば、怖いものはないと実感できているのは大きい。あれこれの教材に手を出して、手間がかかるわりに成果が上がらない、焦る、というループに陥ることがなくなるからだ。
別に「核」は古文の文法でなくてもよく、それぞれ自分の性に合うものを元にすればよい。英語の場合も数学の場合も、歴史という人もいるかもしれないし、運動系部活が「核」になる場合もあるかもしれない。とにかく、どう勉強(練習)すればどうわかる・できるようになったかという「自分で信頼できる体験」をしておくことはたぶんどうしても必要だ。これがないと長時間勉強に頼るしかなく、受験勉強はただの消耗戦になってしまう。逆にこの「核」さえ持っておけば、別に急いで中学生から塾通いする必要はない。
英語の話とかはまたいずれ。
はなひめ昨日の勉強:
…なし。あれ??
----
例1 「(玉の緒よ)絶えなば絶えね」
例2 「侘びぬれば(今はた同じ)」
両方で助詞「ば」が使われているが、現代語で「やればできるのに」というときの「ば」にあたるものは、例1の方だけ。
例1は「絶え(ヤ行下二段連用)な(完了「ぬ」未然)ば(接続助詞)絶え(ヤ行下二段連用)ね(完了「ぬ」命令)」と、未然形につく「ば」なので「絶えてしまうならば絶えてしまえ」となる。
例2は「侘び(バ行上二段連用)ぬれ(完了「ぬ」已然)ば(接続助詞)」と、已然形につく「ば」なので、「悩み苦しんでいれば」としたら間違いで、「悩み苦しんでいるので」となる。