朝のラジオ体操では出来るだけ大きな声で「ラジオ体操の歌」を歌う
ことにしている 。大声で歌うと何故か身体によい。子供の頃の「ラジ
オ体操の歌」は”踊る旭日の光を浴びて・・・・ラジオは号ぶ一二三”
だったが、今は”新しい朝がきた希望の朝が・・・・”に変わった(昭和
31年制定)。僕らには”ラジオが叫ぶ”の方が懐かしいし歌いやすい。
戦争中「ドレミファソラシド」の音階は外国語だという理由で禁止された。
(実際は当時同盟国だったイタリア語だったのだが) 変わって「ハ二ホ
へトイロハ」が採用された。国民学校令が施行された昭和16年4月から
終戦まで音楽教育は「ハ二ホ」で行われた。試験には「ハヘイ」「ハホト」
の和音の聞き分けがあった。敵機の爆音の聞き分けに役立つというのが
目的だった。
わが母校は昭和16,17年度の東京都吹奏楽コンクールの優勝校だっ
たせいか音楽教育には熱心で、普通僕らの世代は楽譜が読めないの
だが、僕でさえ、今でもトオン記号が正確に書ける。当時わが吹奏楽団
が演奏した歌の一つに「月の光」(terang bulann)がる。戦争で南方へ
従軍した世代には懐かしく、日本国内でも一部だが歌われた。
戦後62年、いま「月の光」はマレーシアの国歌「わが祖国」(negaraku)
に制定された。国歌として歌詞は変わっているが、この歌を聞くと、
緒戦の勝利で沸き立っていた頃の「時代」を思い出す。シンガポールは
昭南と呼ばれていた。
ことにしている 。大声で歌うと何故か身体によい。子供の頃の「ラジ
オ体操の歌」は”踊る旭日の光を浴びて・・・・ラジオは号ぶ一二三”
だったが、今は”新しい朝がきた希望の朝が・・・・”に変わった(昭和
31年制定)。僕らには”ラジオが叫ぶ”の方が懐かしいし歌いやすい。
戦争中「ドレミファソラシド」の音階は外国語だという理由で禁止された。
(実際は当時同盟国だったイタリア語だったのだが) 変わって「ハ二ホ
へトイロハ」が採用された。国民学校令が施行された昭和16年4月から
終戦まで音楽教育は「ハ二ホ」で行われた。試験には「ハヘイ」「ハホト」
の和音の聞き分けがあった。敵機の爆音の聞き分けに役立つというのが
目的だった。
わが母校は昭和16,17年度の東京都吹奏楽コンクールの優勝校だっ
たせいか音楽教育には熱心で、普通僕らの世代は楽譜が読めないの
だが、僕でさえ、今でもトオン記号が正確に書ける。当時わが吹奏楽団
が演奏した歌の一つに「月の光」(terang bulann)がる。戦争で南方へ
従軍した世代には懐かしく、日本国内でも一部だが歌われた。
戦後62年、いま「月の光」はマレーシアの国歌「わが祖国」(negaraku)
に制定された。国歌として歌詞は変わっているが、この歌を聞くと、
緒戦の勝利で沸き立っていた頃の「時代」を思い出す。シンガポールは
昭南と呼ばれていた。