「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

            中島慎三郎氏逝去

2011-11-24 17:34:55 | Weblog
東京新橋にあったインドネシア料理店「インドネシア・ラヤ」の店主だった中島慎三郎氏(92)が逝去された。葬儀は近親者のみですでに行われた。中島氏は国際機関ASEANとは無関係のアセアン・センターを主宰し、東南アジア諸国の友好につとめてきた。福田赳夫氏が総理時代、私的な通訳をしたという話もあり、石原慎太郎都知事ら一部の政治家とも交流があった。インドネシアには300回以上出かけたと自負している,インドネシア通だった。

    80老のインドネシア独り旅(3)最後のサムライ

2011-11-24 07:24:49 | Weblog
今回の独り旅の一つの目的はトマングンで「友好寺小屋」を開くバンバン・プルノモさん(86)と会うことだった。僕は小ブログのコメンテーター「ディエン」さんを通じてプルノモさんを紹介された。プルノモさんは大東亜戦争中、日本軍によって創設された郷土防衛義勇軍(PETA)兵士で、インドネシア国軍の参謀総長や戦後駐日大使などを歴任したバンバン・スゲン将軍の末弟でもある。

トマングンはボロブドールなどで知られる古都、ジョクジャカルタから67㌔北の山あいの小さな町だ。プルノモさんの「友好寺小屋」はスマランに通じる国道添いにあった。ここでプルノモさんは20年まえから地元の若者たちに日本語を教えている。自宅を兼ねた「寺小屋」には小さな教室があり、寺小屋の教育方針である"自分のことは自分でやろう”という張り紙が黒板の上に大書されてある。

寺小屋は12月から新学期が始まるそうで、残念ながら授業風景は見られなかったが、僕が滞在中の2日間、朝早くから夜遅くまで、寺小屋で学んだ若い男女の塾生が寺小屋に出入りして、ネーテイブの日本語を話す僕に"コンニチワ ハジメマシテ”と初歩的な会話を試みてきた。そのたびにプルノモさんは、そばに付き添って”手とり足とり”指導している。言葉だけでなく66年前、自分が義勇軍時代、指導された日本の精神を教えているように僕には受け取られた。

プルノモさんの恐らく昭和時代産の古い日本製の自家用車の後窓には、英語で「Last
Samurai」と書かれてある。そういう目で見るからか、プルノモさんの一挙手一投足には、日本では今や忘れられかけてきた武士道のそれを感じさせた。滞在中の一夜、僕は寺小屋の卒業生のやっている屋台のナシ・ゴレン(焼き飯)の店に招かれ、プルノモさんが義勇軍時代、日本の軍人から学んだ「軍歌演習」を共にした。