「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

     80老のインドネシア独り旅(7)日本人の存在感

2011-11-28 07:50:30 | Weblog
たった10日間の駆け足旅行でモノを申すのは僭越だが、どうもインドネシアにおける日本の"存在感”が薄くなってきた感じがする。45年前、僕がジャカルタに常駐していた当時は日本の占領時から20年しかたっていなかった時代であり、ちょうど賠償引き当ての援助が進行中だったこともあって、日本とインドネシアとの関係は密接なものだった。この時代だけではなく僕は1990年代から毎年1回はインドネシアを訪れているが、かっての日本とインドネシアとの間の特別に親しかった関係は次第に希薄化なもになってきた印象を受ける。何故なのだろうか。

ジャカルタの邦字紙「じゃかるた新聞」が先日インドネシアにおける韓国の進出ぶりを特集していた。インドネシア在留の日本人の数は、このところ若干増えては来ているが、10年ほど前のクリスモン(経済危機)以後1万人前後を推移しているが、韓国人はなんと5倍の5万人が在留している。各地に巨大なプロジェクトがあり、ジャカルタ郊外には"韓国人町”まで出現している。これにつれてインドネシア人の若者の間で韓国語を学ぶ者がが増えているという。

今回、僕はジャカルタの安宿に泊まったこともあるが、知り合い以外、日本人は一人も目にしなかった。かっては日本人で賑っていた近くのホテルの日本レストランも、昔のようではなかった。最後の日宿泊したタンゲランの宿のショッピング・モールにあった日本食レストランに至っては客の姿がなく閑古鳥が鳴いていた。

帰国後、在京のインドネシアに滞在したことがある複数の知人にこの理由を尋ねてみた。理由の一つは、在留日本人が昔のように一軒家を借り、現地のインドネシア人と接触する機会がなくなったことをあげている。高層のマンションの一室で生活しているため、職場以外現地人と接触することがなくなった。また海外勤務は贅沢するものと考える日本人がが増加して”汗を流して"働く日本人の気風が失われてきた、という人もあった。昔のことで恐縮だが、半世紀前、アラビア石油のカフジの現場を訪れたことがあったが、日本人は灼熱の砂漠にカマボコ型の簡易宿舎で働いていた。

先の戦争でわが国は蘭印(インドネシア)だけで10万人をこす尊い生命を失ってる、そして戦後の苦しい時代に巨額な賠償金をインドネシアに支払っている。さらに世界一のODA援助をこの国にしてきた。韓国がインドネシアと国交を結んだのは、30年ほど前の1972年である。
(写真はジャカルタの空の玄関、スカルノ・ハッタ空港に近くオープンする韓国人専門の免税店)(80老のインドネシア独り旅終わり)