早くも喪中葉書が届いた。最近、友人知人でも亡くなってすぐご遺族から知らせがなく、年末の喪中葉書で始めて訃報を知るこケースが多くなった。昨日、頂戴したI.O氏のご逝去もそうだ。まだ70歳という若さである。僕は10数年前、歌手、鮫島有美子さんの厳父正年さん(故人)を通じてI・O氏と知り合った。I・O氏の実父、新穂智さんと鮫島正年氏とは、戦時中、蘭印在住の邦人が抑留されていたオ-ストらリアのラブダイ収容所仲間であった。鮫島さんは、僕に対して、ぜひ新穂智さんのすさまじい、素晴らしい一生を紹介してくれと依頼してきた。
僕は小ブログで2010年12月8日と9日、二回に渡って新穂智さんを紹介ささせて頂いたが、再度、簡単に一生について触れてみる。新穂智さんは大正5年(1916年)鹿児島県生まれ、。地元の旧制中学校を卒業後満鉄に入社、満州で入隊、甲種幹部候補生に合格した後、東京の陸軍情報關係の中野学校(第一回)を卒票した。昭和15年、情報収集のためバタビア(ジャカルタ)に日蘭通商会議の随員として渡り、会議決裂後も同盟通信(共同通信)記者の資格で、主としてスマトラ・パレンバンの採油地の情報収集に当たった。この情報が後年、17年3月の、落下傘部隊降下の成功に導いた。
その間、新穂智さん自身は16年12月8日、開戦と共に蘭印当局によって逮捕され、他の邦人3千人と一緒にオーストラリアの砂漠地帯のラブダイに送られた。翌17年、捕虜交換戦で新穂さんは帰国し、中野学校教官に任命されたが、それもつかの間、18年、西部ニューギニアの調査と住民宣撫工作の「神機関」長として派遣された。新穂さんは当時前人未到の地を踏破し、敵との戦闘に備えたが敗戦となり、住民虐殺という罪を着せられ、戦後ホランディア(ジャヤプーラ)の和蘭法廷で死刑に処せられている、32歳の若さである。
新穂智少佐が獄中、裁判資料として陸軍の便箋に手書きで書いた絵入りの文書が。東京の「インドネシア文化宮」が編集した全文がyoutubeで見ることが出来る。I・O氏が先年、「インドネシア文化宮」を主宰する大川誠一氏に提供されたものである。
僕は小ブログで2010年12月8日と9日、二回に渡って新穂智さんを紹介ささせて頂いたが、再度、簡単に一生について触れてみる。新穂智さんは大正5年(1916年)鹿児島県生まれ、。地元の旧制中学校を卒業後満鉄に入社、満州で入隊、甲種幹部候補生に合格した後、東京の陸軍情報關係の中野学校(第一回)を卒票した。昭和15年、情報収集のためバタビア(ジャカルタ)に日蘭通商会議の随員として渡り、会議決裂後も同盟通信(共同通信)記者の資格で、主としてスマトラ・パレンバンの採油地の情報収集に当たった。この情報が後年、17年3月の、落下傘部隊降下の成功に導いた。
その間、新穂智さん自身は16年12月8日、開戦と共に蘭印当局によって逮捕され、他の邦人3千人と一緒にオーストラリアの砂漠地帯のラブダイに送られた。翌17年、捕虜交換戦で新穂さんは帰国し、中野学校教官に任命されたが、それもつかの間、18年、西部ニューギニアの調査と住民宣撫工作の「神機関」長として派遣された。新穂さんは当時前人未到の地を踏破し、敵との戦闘に備えたが敗戦となり、住民虐殺という罪を着せられ、戦後ホランディア(ジャヤプーラ)の和蘭法廷で死刑に処せられている、32歳の若さである。
新穂智少佐が獄中、裁判資料として陸軍の便箋に手書きで書いた絵入りの文書が。東京の「インドネシア文化宮」が編集した全文がyoutubeで見ることが出来る。I・O氏が先年、「インドネシア文化宮」を主宰する大川誠一氏に提供されたものである。