お彼岸のお墓参りの帰途,もんじゃ焼きを食べた。今では東京の下町の名物
となり,修学旅行のガイドブックにも載っているという。しかし、戦前昭和の
10年代、東京ではあまりポピュラーではなかった。というより、この時代
子供だった僕らは、その名前を聞いたことがない。僕らが知っているのは作家、
池波正太郎が大好きだったどんどん焼きの方だ。
昭和の初期、東京の区部ではどこへ行っても子供相手の駄菓子屋があった。
どんどん焼きは、この駄菓子屋を中心にはやっていた。もんじゃ焼きと同様、
小麦粉を水でとぎ、その中にお好みの具を入れて鉄板の上で焼く手法。
店のおばさんが焼いてくれた場合もあるが、ほとんどは自分で焼いた。
具には、赤い干しえび,さきイカ,時には甘いあんこもあった。値段は
子供のお遣いの5銭から10銭程度だったと思うのだがー。もんじゃ焼きとの
違いは、水のときかたがもっと濃かったように思う。
いわゆるお好み焼きは、呼び名は違っても世界共通”自然発生”的な庶民の
食べ物だ。僕がよく旅行するインドネシアでは「マルタバ」といって、おもに
露天の店で売っている。その「マルタバ」の料理講習会が4月22日(土)
東京目黒である。詳細・問合せは(財)日本インドネシア協会 電話03-
3661-2956まで。参加料は2千円。
となり,修学旅行のガイドブックにも載っているという。しかし、戦前昭和の
10年代、東京ではあまりポピュラーではなかった。というより、この時代
子供だった僕らは、その名前を聞いたことがない。僕らが知っているのは作家、
池波正太郎が大好きだったどんどん焼きの方だ。
昭和の初期、東京の区部ではどこへ行っても子供相手の駄菓子屋があった。
どんどん焼きは、この駄菓子屋を中心にはやっていた。もんじゃ焼きと同様、
小麦粉を水でとぎ、その中にお好みの具を入れて鉄板の上で焼く手法。
店のおばさんが焼いてくれた場合もあるが、ほとんどは自分で焼いた。
具には、赤い干しえび,さきイカ,時には甘いあんこもあった。値段は
子供のお遣いの5銭から10銭程度だったと思うのだがー。もんじゃ焼きとの
違いは、水のときかたがもっと濃かったように思う。
いわゆるお好み焼きは、呼び名は違っても世界共通”自然発生”的な庶民の
食べ物だ。僕がよく旅行するインドネシアでは「マルタバ」といって、おもに
露天の店で売っている。その「マルタバ」の料理講習会が4月22日(土)
東京目黒である。詳細・問合せは(財)日本インドネシア協会 電話03-
3661-2956まで。参加料は2千円。