「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

もんじゃ焼き、どんどん焼き

2006-03-21 07:28:01 | Weblog
お彼岸のお墓参りの帰途,もんじゃ焼きを食べた。今では東京の下町の名物
となり,修学旅行のガイドブックにも載っているという。しかし、戦前昭和の
10年代、東京ではあまりポピュラーではなかった。というより、この時代
子供だった僕らは、その名前を聞いたことがない。僕らが知っているのは作家、
池波正太郎が大好きだったどんどん焼きの方だ。

昭和の初期、東京の区部ではどこへ行っても子供相手の駄菓子屋があった。
どんどん焼きは、この駄菓子屋を中心にはやっていた。もんじゃ焼きと同様、
小麦粉を水でとぎ、その中にお好みの具を入れて鉄板の上で焼く手法。
店のおばさんが焼いてくれた場合もあるが、ほとんどは自分で焼いた。
具には、赤い干しえび,さきイカ,時には甘いあんこもあった。値段は
子供のお遣いの5銭から10銭程度だったと思うのだがー。もんじゃ焼きとの
違いは、水のときかたがもっと濃かったように思う。

いわゆるお好み焼きは、呼び名は違っても世界共通”自然発生”的な庶民の
食べ物だ。僕がよく旅行するインドネシアでは「マルタバ」といって、おもに
露天の店で売っている。その「マルタバ」の料理講習会が4月22日(土)
東京目黒である。詳細・問合せは(財)日本インドネシア協会 電話03-
3661-2956まで。参加料は2千円。





イラク戦争3周年、ブッシュと辻参謀

2006-03-20 08:34:46 | Weblog
イラク戦争が始まって今日で3周年。米国が主張していた戦争の「大義」が
崩れてしまった現在、依然お互いに血と血で洗う必要があるのかー。戦争とは
人類の業なのかー。

テレビの特別番組で米軍の現地当局が若い兵士のためのイラク理解の文化講座を
紹介していた。イスラムの基礎から風俗習慣を手取り足取り教えていた。イラク
人の車の止め方など、この特殊のゼスチャーが理解できなければ、殺されるかもしれない。それだけに学ぶ兵士も真剣だ。

65年前、わが南方軍はマライ上陸に先だって「これさえあれば戦争に勝てる」という冊子を兵士に渡した。辻政信・参謀監修といわれる、この冊子には「土人の風俗習慣を尊重せよ」という項で微にいり細にいりマレー人の風俗習慣、とくに回教の掟を教えている。

米国は3年前、イラク戦争を開始するに当たって、どの程度イラクについて理解し勉強していたのか疑問である。戦争開始まもなく暴徒がサダム・フセインの銅像を破壊したとき、なすがま傍観していた。
64年前、わが南方軍はスタンフォード・ラッフルズの銅像を台座から降ろしたが、破壊せず博物館に収容した。米国はフセインの銅像が壊されることによって、その後事態がどう進展するかー。つまりイラク国内のスン二派とシーア派の対立が深刻化し、収拾つかぬ状態になるか読めなかったのだ。




小中一貫校は地域社会の破壊

2006-03-19 07:58:42 | Weblog
全国初の小中一貫校が、僕の卒業した小学校の学区に開校、その
祝賀会の案内状が届いた。”おめでとう”といいたいが、百年以上
の歴史と伝統を持つ母校の廃止については一言も触れていない。
卒業生に祝賀会の挨拶を送るのならば、まずもって、廃校の挨拶が
あってしかるべきだ。

一貫校は都会過疎の苦肉の策として開校するようだが、果たして
小中学校のレベルで、この種の学校が必要なのだろうかー。明治
以来、日本の公立学校は地域社会とともに育ってきた。クラスの
中には、その地域のいろんな階層の子供がいて自然のうちに社会の
仕組みが学べた。一貫校は多分,学力かなにか一定の項でくくって
生徒を選ぶのだろうが、学校だけで全人教育が可能なのかー。
地域社会の支援があってこそ可能なのだ。

卒業生の気持ちの忖度もなく、一方的に開校祝賀会の挨拶状を送り
つける人たちは、多分、自分の世話になった母校への愛校心を持ち
合せない方々で、果たして、この人たちに教育を任せてよいものだ
ろうかー。



完全燃焼からの脱出 沈丁花の季節

2006-03-18 07:21:25 | Weblog
今年は桜の開花宣言が早いのに、何故かこの季節に匂う
沈丁花の香りがまだしてこない。どこからともなく漂うように
流れてくる,この花に僕は特別な思いがあり、そして大好きだ。


四分の一世紀前、僕は足掛け10年勤務した北海道の会社を
途中退社して、故郷の東京へ引き揚げてきた。50歳、まだ
定年まで5年残っていたのだがー。(当時大部分の企業は55
歳定年だった)退社の最大の理由は健康上の問題だったが、
このまま、あと5年会社に残って”完全燃焼”してもという
”損得勘定”が働いたことも事実だ。

退社した昭和56年の東京の春は早かった。僕の家のまわりは
沈丁花の匂いで一杯だった。早速僕は挨拶状の頭詞に沈丁花を
使用した。それほど沈丁花の匂いは強烈だったのだ。

あれから25年の歳月が流れ、僕の人生の”損得勘定”は、どう
だったのかー。いま、こうして元気で毎日ブログで雑文が書ける
のだから、僕にとっては”得”だった。本人が”得”だっと思う
のだから”得”なのだろう。僕は沈丁花の匂いが大好きだ。

韓国大統領の遊就舘訪問

2006-03-17 07:55:26 | Weblog
中曽根元総理と福田前官房長官の表敬訪問に対しノ.テウ韓国大統領が
靖国神社境内にある遊就舘を訪問したい旨述べた。大統領は
小泉総理の靖国参拝に強く反対しており、遊就舘訪問の際、靖国
神社に参拝するとは思えない。鳥居をくぐらず遊就館へ行くのは
難しい。とすれば、発言は実現性のない嫌がらせにすぎない。

遊就館は戦争美化の殿堂だとする批判がある。韓国大統領の発言は
この延長線上にあり、小泉総理の歴史認識が暗に戦争美化であると
いいたいのであろう。小泉総理は繰り返し自分の参拝は、過去に
国のため亡くなった方々への慰霊であり,不戦決意の表明だと述べている。
その通りだと思う。大統領は猜疑心の塊のような人だ。

しかし、遊就館が靖国の境内にあることは、あらぬ誤解を呼ぶのも
事実だ。遊就館は一種の戦争博物館だから、戦争に関するあらゆるものを
展示できるし、展示して貰いたい。しかし、国によって歴史認識は異
なる。たとえば、遊就館1階ホールの泰緬鉄道のC-56機関車である。当時の
鉄道連隊のご苦労は充分わかるのだが、国際的には、あの映画「戦場に
かける橋」の印象が強すぎる。つまり、あの機関車は、日本軍の”残酷さ”
の象徴とうつるのである。展示物にはどうしても歴史認識がついてまわる。
誰でもが行ける国家的な慰霊施設の建設ではなく、遊就館の靖国神社境内からの
移転を提案したい。





勝鬨橋 月島の想い出

2006-03-16 06:48:00 | Weblog
きのう用事で「勝どき」へ出かけた。勝鬨橋のあるあたりが今「勝どき」と
地名が変わり、高層ビルのモダンなビジネス街に変容している。昭和15年、
日本初の開閉橋として、この橋が誕生したとき、僕は町内の子供会で見学に
訪れ,橋が二つに割れる偉容にびっくりしたものだ。あれから66年、橋は
昭和43年以来、すでに38年も開閉していないそうだ。

むかし勝鬨橋の上には都電が通り月島まで行っていた。戦前はこの終点から
歩いて海へ行き泳げた。水泳道場のよしず張りの小屋もあった。ただ、海は
もうそのころ、すでに汚れていて子供心にあまり泳ぎたくはなかった。道場の
あったのは、どのあたりだろうかー。埋立てと開発が進んで今ではさっぱり、
判らない。

つい、この間のような気がするが60年以上も昔のことだ。変わるのは当たり
前である。


豊富なミカンと田道間守(タジマモリ)

2006-03-15 07:47:52 | Weblog
冬ミカンがそろそろ店頭から消えようとしている、この季節、昔は
果物の端境期であった。夏ミカンが出回る晩春まで,ビターミンC
の補給はどうやっていたのであろうかー。ところが、今はどうだ。
スーパーの店先はミカン、ミカンのやまである。伊予柑,でこポン、
八朔、輸入物のグレープフルーツなどなど。田道間守が非時香菓(橘)
を求めて海外へ行く必要はさらさらない。

しかし、失ったものも大きい。それは果物による季節感の喪失である。
たとえば、夏ミカンである。あのすっぱい夏ミカンである。家族が
口をすぼめてすっぱさに挑戦、時には重曹を、時には砂糖をつけて
食べたあの味、あの季節ならではの味であった。いちご、スイカetc,
いつでも食べられるのは有り難いが、やはり保守派の僕には自然の季節
にあったころに食べるのが一番おいしい気がする。

ひけらかして、いわせてもらえれば、僕が始めてグレープフルーツを
食べたのは昭和37年11月,カイロのナイル河畔のホテルであった。
味もさることながら、輪切りにしてスプーンで食べる食習慣に驚いた。

ホワイト・デイ&ブラック・デイ

2006-03-14 07:30:30 | Weblog
娘の家に北海道からお菓子の宅急便が届いた。孫のホワイト・
デイ用にわざわざ取り寄せたのだという。「ホワイト・デイって
なんだ」(小生)「バレンタイン・デイのお返しの日です」(妻)。

バレンタイン・デイなら、あまり縁がない僕でも知っている。
が、ホワイト・デイは知らなかった。HPによると、20年前
お菓子屋さんの組合が商戦用に始めたもので、今は定着し始めた
慣習だという。平和なよい時代である。

僕らの子供時代はブラック・デイ(暗黒時代)であった。戦争で
お菓子というお菓子は配給制となり、店先から消えた。昭和
17年、東京の子供は関西へ「参宮旅行」(修学旅行)へ出かける
ことになり,菓子が特配になった。ところが,同行の校長の一声
で旅行中食べるのを禁止され、家へ持ち帰った。理由は不明。
食い物の恨みは怖い。64年たった今でも、あのときの校長は
好くいわれていない。


ホワイト・デイにブラック・デイ時代の想い出。

日中「漢文」セミナーを提案

2006-03-13 07:32:51 | Weblog
日中関係は「政冷経熱」だが、最近はその経済関係さえも冷えてきたという。
そしてその解決策として「以文促情」が関係者の間でいわれている。
そこで、僕は麻生太郎と李健星・日中外相との間の「漢文」セミナーを提案
します。

戦前までわが国の中等学校(高等女学校)では「漢文」が必修科目だった。あの
子曰「シ,ノタマワク」で始まる中国の古文である。大雑把な言い方をすれば、
「漢文」は中国の古文を学ぶとよりは「四書五経」の中国三千来の政治哲学、
倫理観などを学ぶのが、当時の教育関係者の思惑だったと思う。

戦後「漢文」は選択科目となり、一部の研究者だけが学んでいる。麻生外務
大臣は多分勉強していないのではないだろうかー。李健星・外相はどう
だろうかー。「四書五経」が文革で、どのように評価されたのか詳しいことは
知らない。しかし、この世代の中国人は一般的には勉強していない。

そこで、僕は日中和解のために「漢文セミナー」を提案し、中国三千年の永遠の
真理を一緒に勉強したらどうかと提案する次第です。日中は「四海兄弟」(論語・
顔淵)なのですから。



大相撲後楽園場所

2006-03-12 07:41:00 | Weblog
大相撲三月(大阪)場所が今日から始まった。双葉山の69連勝のころ、
子供時代を送った世代には、角力について何かしらかの想い出があるの
ではなかろうかー。当時どこの校庭の砂場も休み時間には、何組かの
子供たちが取り組んでいた。夕暮れ時ラジオで大相撲の放送が始まると
みんなすっとんで家へ帰ったものだった。

昭和19年多分5月だったと思うのだが、今ドームのある後楽園球場で
本場所が催された。まだ昔の国技館(両国)が空襲で焼ける前だった。
おそらく国技館の建物が軍需工場として使われていたためだと思う。
取組についての記憶はないが、たしか、この場所か前場所だったかと
思う。水入り相撲を取った力士二人が”敢闘精神”不足で罰せられた。
時代を感じさせる。いまの跳んだり、はねたり、逃げたりするような
相撲は即刻禁手となり、場所入りも禁じられたかもしれない。