「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

再度 嗚呼 新穂智(にいほ・さとる)陸軍少佐の死

2014-11-06 06:20:56 | Weblog
早くも喪中葉書が届いた。最近、友人知人でも亡くなってすぐご遺族から知らせがなく、年末の喪中葉書で始めて訃報を知るこケースが多くなった。昨日、頂戴したI.O氏のご逝去もそうだ。まだ70歳という若さである。僕は10数年前、歌手、鮫島有美子さんの厳父正年さん(故人)を通じてI・O氏と知り合った。I・O氏の実父、新穂智さんと鮫島正年氏とは、戦時中、蘭印在住の邦人が抑留されていたオ-ストらリアのラブダイ収容所仲間であった。鮫島さんは、僕に対して、ぜひ新穂智さんのすさまじい、素晴らしい一生を紹介してくれと依頼してきた。

僕は小ブログで2010年12月8日と9日、二回に渡って新穂智さんを紹介ささせて頂いたが、再度、簡単に一生について触れてみる。新穂智さんは大正5年(1916年)鹿児島県生まれ、。地元の旧制中学校を卒業後満鉄に入社、満州で入隊、甲種幹部候補生に合格した後、東京の陸軍情報關係の中野学校(第一回)を卒票した。昭和15年、情報収集のためバタビア(ジャカルタ)に日蘭通商会議の随員として渡り、会議決裂後も同盟通信(共同通信)記者の資格で、主としてスマトラ・パレンバンの採油地の情報収集に当たった。この情報が後年、17年3月の、落下傘部隊降下の成功に導いた。

その間、新穂智さん自身は16年12月8日、開戦と共に蘭印当局によって逮捕され、他の邦人3千人と一緒にオーストラリアの砂漠地帯のラブダイに送られた。翌17年、捕虜交換戦で新穂さんは帰国し、中野学校教官に任命されたが、それもつかの間、18年、西部ニューギニアの調査と住民宣撫工作の「神機関」長として派遣された。新穂さんは当時前人未到の地を踏破し、敵との戦闘に備えたが敗戦となり、住民虐殺という罪を着せられ、戦後ホランディア(ジャヤプーラ)の和蘭法廷で死刑に処せられている、32歳の若さである。

新穂智少佐が獄中、裁判資料として陸軍の便箋に手書きで書いた絵入りの文書が。東京の「インドネシア文化宮」が編集した全文がyoutubeで見ることが出来る。I・O氏が先年、「インドネシア文化宮」を主宰する大川誠一氏に提供されたものである。

親日大使が建てた欧州初の「サンマリノ神社」

2014-11-05 05:44:32 | Weblog
イタリア在住が長い知人からサンマリノ共和国に今年6月、日本の神社庁公認の本格的な神社が建てられた話を聞いた。駐日サンマリノ大使、マンリオ・カデロ氏の発案、肝いり、浄財で建立されたもので、祭神は東日本大震災の犠牲者とのこと。おそらく、戦前戦後を通じてヨーロッパの地に神社が建立されたのは「サンマリノ神社」が初めてではないだろうかー。

サンマリノは世界で5番目に小さい共和国で、イタリア半島の中南部にある面積僅か61平方キロ、八丈島ぐらいの広さ。人口もこれまた33、600人と日本の小さな市町村なみだ。在留邦人に至っては4人しかいない。何故、こんな小さな、日本から遠い国の大使が神社を建てたのか。しかも大使は敬虔なカトリック教徒だという。その「謎」は、大使が最近、日本で出版された「だから日本は世界から尊敬される」(小学館新書)の中で披瀝されている。大使は、すでに在日40年、駐日153か国の外交使節の中で一番古く団長を務めている。その長い体験から大の日本好きなのだ。

イタリアは世界観光番付けで、フランス、アメリカ、中国、スペインに次いで第5位で、日本からも毎年200万人の観光客が訪れている、しかし、そのほとんどは、パック旅行になっていて、サンマリノを訪れない。大使が神社を建てた意図には、母国への日本人観光客誘致もあるのかもしれない。日本からベネチアまで直行便が出ており、サンマリノまでは直通バスもあるそうだ。ベニスでゴンドラ観光を楽しんんだ後、「サンマリの神社」の社殿の前で二礼二拍一礼して、大使のご厚情にこたえお賽銭を上げるのも旅の想い出になるのではないだろうかー。

国民のイライラ 小笠原沖の中国船サンゴ違法操業

2014-11-04 06:13:30 | Weblog
小笠原沖での中国のサンゴ密漁船が9月中旬から急増し、この1か月半で、確認されただけで200隻をこえ、一部は伊豆諸島沖にまで進出してきている。新聞社が撮った空中写真でも、その姿がはっきり見える。素人で解らないが、わが国の領海か排他的経済水域内と思われるが、何故政府は、この問題について中国に抗議しないのか。まさか10日から北京で開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)を前に、中国との間に事を荒立てたくないという配慮とは思いたくないのだが。国民のイライラはつのるばかりだ。

新聞報道によると、密漁船のうち数隻は”現行犯”逮捕されたが、船長が僅かな担保金(補償金)を支払えば、その場で船ともども釈放されるとのこと。中国では小笠原沖の赤サンゴは宝物で巨額のカネで売れるので、担保金を払っても商売になるらしく密漁船は後を絶たないらしい。これに対して日本側は
中国漁民が島へ上陸してこないかと、警視庁から28人の機動隊員を派遣、島内をパトロールさせている。こんな姑息なことで済む問題なのだろうかー。

思い出されるのは2010年9月、尖閣諸島の日本領域内で不法操業していた中国漁船が取締りの海上保安庁の船に体当たりして逃亡を図った事件だ。当時の民主党政権は漁船を一時拿捕したが、すぐに船員ともども釈放帰国させ、逮捕した船長も処分保留のまま1か月程度で釈放させた。船長は中国では英雄視されたとのことだ。

古い話では1952年、韓国の李承晩大統領は国際法を無視して一方的に「海洋主権宣言」をし”李承晩ライン”を設定した。そして、この領海に入った日本漁船を拿捕し、漁船員を不当に逮捕した。韓国が今なお不法に占拠している島根県の竹島は、この”李承晩ライン”の延長線上にある。領土問題はきちんと対処しないと、ロシアの北方領土の二の舞になる。サンゴ泥棒と軽くみず、きちんと中国に対して正式に抗議すべきである。

遠くなりけり 「明治節」の祝日

2014-11-03 05:57:03 | Weblog
今日11月3日は「文化の日」、国民の祝日である。といっても戦前昭和の時代に育った世代にとっては、「文化の日」よりは「明治節」の方が懐かしくぴたりとくる。”アジアの東、日出ずる処、聖の君の現われまして”で始まる「明治節」奉祝歌は戦後70年経った今でも歌詞なしでも歌える。

「文化の日」は昭和23年の祝日法改正で”自由と平和を愛し文化をすすめる”趣旨で制定されたもので、明治天皇の誕生日であった「明治節」とは直接関係がない。11月3日が「文化の日」なのは、戦後の昭和21年、新憲法が公布された日だからと、ウイキぺディアでは説明している。

”明治は遠くなりにけり”という言葉が昭和の時代よき聞かれた。明治34年(1901年)生まれの俳人、中村草田男が昭和6年(1931年)の大雪の日、東京港区の母校を訪れた際詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」に由来している。草田男30歳の時の句である。戦後「明治節」が廃止になってから、すでに70年近い歳月が流れている。「明治節」も遠くなりけり、である。

平成17年の「祝日法改正」で、昭和天皇の誕生日であった4月29日が「”激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に想いを馳せる”として「昭和の日}として制定された。しかし、一方、わが国を近代国家として発展させた明治天皇の誕生日11月3日は、たんに漠然と「文化の日」とされたままである。”ハッピ―・マンデイ”法で、休むだけが目的の祝日が増えているが、、やはり「昭和の日」があるのなら「文化の日」の名前を「明治の日」と変更し、明治の御代に想いをはせてもよいのではないかー。

企業OB会の衰退と終身雇用制との相関

2014-11-02 07:24:27 | Weblog
61年前の昔、学校を出てすぐお世話になり16年間勤務した新聞社のOB会に週末の金曜日参加した。夜の会合は出来るだけ遠慮しているのだが、数少なくなった昔の友人と会えるのが懐かしく顔を出すことにしている。昭和32年に建てられた建物は、すでに壊され、新しいビルが建っており、敷地だった一角には”プラザ”が設けられ、若い人たちがハロウインの催しなのかダンスを楽しんでいた。昔は、ビル群のこの辺りは夜間になると人通りなどなかったものだがー。時代の移り変わりを実感した。

OB会の司会者によると、ここ数年会社を辞めてもOB会に参加しない人が増えてきているという。一方会員の物故者が増加、昨年一年間で38人にも上っている。このため数年前までは1000人を越していた会員数が3ケタになった。このままでは会の運営にも影響があると嘆いていた。昭和30年代に急成長した会社なので、その当時入社した会員が多く、亡くなっていくのは解る。が、新しく退社した人たちがOB会参加を望まないのは何故なのか。東京だけでなく大阪本社も同じ傾向だという。

僕が現役当時、会社は”残酷物語”の会社と世間で言われていた。人つかいが荒く、給料が低いことで有名であった。1960年の第一次安保闘争の頃で、一部中間管理職の”斬首り”も行われた。確かに今なら労働基準法に触れると思うのだが、過勤料は一定の額で頭打ち。しかし、現場ではそれに倍する仕事量であった。朝刊の締切時間は午前2時過ぎで、重大ニュースが入ると明け方まで”追っかけ”版をとったものだ。

ハロウインの催しの広場のあたりには、深夜になると屋台のおでん屋が出た。僕らは最終版が刷り終わると、ここで、きつい安酒を煽り、それから二段ベッドの宿直室に出かけた。そのストレスで入院するものもいたが、会社を訴えるものはいなかった。こんな会社であっても当時は「終身雇用制」が曲がりなりにも確立されていた。時代が変わり「終身雇用制」が崩れてきたと聞く。企業のOB会の衰退は「終身雇用制」となにか相関関係があるのだろうかー。”愛社心”などないのだろう。

クールな新しい日本文化の紹介

2014-11-01 06:26:27 | Weblog
アニメやアイドル歌手のテレビ出演、インターネットなどを通じて日本の新しい文化を海外に紹介する官民機構「クールジャパン」があることを初めて新聞で知った。昨年11月、新しく発足したばかりの機構だそうだが、新しい文化の紹介によって海外に進出している日本の企業を宣伝面からバックアップしようというのが狙いのようだ。

「クール」という言葉を聞くと、戦前戦中「赤尾のマメ単」で受験勉強した世代は”涼しい”とか”冷たい”せいぜい”冷静”という意味を思いだす。戦後すぐの時代には、進駐軍の女兵士がペンギンの絵の箱のハッカ入り煙草を吸っていたが、これも「クール」であった。しかし、今は”恰好が好い”とか”イカス”といった意味で使われることが多い。NHKのBS方にも「クール・ジャパン」という日本紹介の番組がある。

日本文化というと、戦前は”フジヤマ、ゲイシャ”だったと、よく言われるが、つい最近まで、その文化の紹介というと、茶の湯や生け花、せいぜい歌舞伎ぐらいであった。それは、間違いではないし、反対ではないが、現在の日本人の日常生活とはかけ離れていた。外国人の中には、日本人の誰でもがお茶をたてられ、作法を知っているものと誤解する。

その点、日本のアニメはインターネットを通じて世界中でみられるし、AKB48も若者を中心に知れ渡り、インドネシアでは自国版の歌劇団さえある。秋葉原のコスプレも今や日本の新しい文化として海外で人気があるという。”化石人間”に近い僕には解らないことばかりだが、戦後70年、ずーつと平和の中で幸せに暮らしている日本の姿をもっと、世界に知らせる方法もあってもよいのでは。