「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

わが家の周りはクリスマスの電飾で花盛り

2015-12-14 05:31:15 | 2012・1・1


クリスマスまであと10日すこし。昔のようにジングルベルのメロデイを耳にすることはなくなったが、わが家の周りはクリスマスの電飾で花盛り。僅か100メートル四方の地に5軒も御覧のように、色とりどりの電飾で街を明るくしてくれている。住宅街の個人の家で、このようにクリスマスの電飾をし始めたのは、いつごろからであろうか。多分、LEDという言葉を耳にし始めた平成になってからのような気がするが。

焼跡ヤミ市世代の僕らにとっては、クリスマスは無縁の存在であった。亡父の昭和22年の日記を見ると、11月29日のページには”電灯一軒一灯(60ワット)とある。さらに12月に入ると毎日のように定時停電があり、暗いロウソクの下で一家は内職仕事をしていた。学校の試験の前、わざわざ電車に乗って勉強した記憶もある。とてもクリスマスを祝うどころではなかった。改めて今の平和な時代に感謝する。

南京陥落時の想い出 便衣兵

2015-12-13 06:27:42 | 2012・1・1
78年前の昭和12年12月13日は日支事変で南京が陥落した日である。すっかり忘れてしまっていたが、昨日の新聞の書籍広告の「南京」特集から想い出した。しかし、「南京」特集といっても、南京陥落の当時の勝利の感激ではなく、旧日本軍による大虐殺があったか、どうかをめぐるものばかりである。当時、僕は小学校1年生であったが、南京陥落の翌14日、東京で催された昼間の旗行列、夜の提灯行列の賑やかさが遠い記憶の中にある。

亡父の残した日記によると、南京攻略戦は国民の最大の関心事で、12月の日記には▽大本営南京攻略を命令(1日)▽南京空襲(3日)陥落目睫に迫る(6日)▽蒋介石、南京脱出(7日)▽大空襲、降伏勧告のビラを空から配布(9日)▽中国軍、期限がきても降伏に応ぜず(10日)▽中国軍司令官,唐生智、南京脱出(12日)▽大本営、南京陥落を発表―と記してある。

むろん、小学生であッた僕は詳しい戦況について知らなかったが、南京陥落時の中国軍の「便衣兵」について何故か覚えている。周囲の大人から聞いた話と思うが、敗残した中国兵は軍服をさっさと普通の人の服に着替えてゲリラ戦をするとのこと。随分ずるい話だと子供心に怒ったものだ。戦後になって大虐殺の話が連合軍国際裁判で持ち上がり、ユネスコの記憶遺産にまで登録されてしまったが、日本側の記録を調べると、中国側のいう大虐殺はありえない。日本の研究者の中には”大虐殺”の一因は”便衣兵”殺害だと指摘しているが、当時、子供だった僕でも”便衣兵”を知っているのは、日本軍が”便衣兵”にてこづったのは事実であろう。

日本国内のPM2.5の発生源は?

2015-12-12 06:09:03 | 2012・1・1
関東各地のPM2.5濃度が一昨日(12月10日)急上昇したという新聞記事をみた。環境省の注意喚起値は1時間当たり平均80-85μkg(マイクロ.キログラム)だが、一時的にせよ千葉県銚子市の105μ.kgを筆頭に各地で注意喚起値を超えた。環境省では先日、北京で発令された「赤色警報」との関連については”不明”だとしているが、それでは発生源は何なのか気になるところだ。

昨日の東京は夜来の大雨が昼前には上がり、気温は24℃まで上昇した。この季節はずれの天候がPM2.5濃度の上昇と関係があるのかと、素人なりに心配してサイトにあるPM2.5情報をチェックしてみたら、午前11時の観測値だが、千葉家浦安市の92μ.㎏を最高に東京江戸川区75、東京大田区の3か所で基準値を超え”有害”の表示があった。

1970年から80年にかけて東京では、毎日のように光化学スモッグが発生、太陽が見えない日が多かった。当時わが家は光化学スモッグ発生第一号の環七通りから200メートルほど入った場所にあったため小学生だった長男が小児喘息に罹かり、病院にお世話になったが、72年、僕の札幌転勤で全快したのを憶えている。

光化学スモッグ発生時には、学校などの公共施設や宣伝車などから警報を告げ、市民に注意を喚起したが、PM2.5の場合はどうなのか。サイトを見れば濃度は判るが、いちいちチェックする人は少ない。それとも、今のところ、光化学スモッグほど被害が深刻ではないからだろうか。それにしてもPM2.5の発生源が、中国以外にもあるとすれば、環境問題にうとい僕には心配だ。

”焼跡ヤミ市”派世代と野坂昭如氏の平和論

2015-12-11 07:01:19 | 2012・1・1
”焼跡ヤミ市”派世代の作家野坂昭如氏が長い闘病生活の末亡くなった。僕と同じ歳で学年も同じである。日支事変の始った昭和12年に小学校に入学、敗戦時は旧制中学3年であった。言ってみれば戦争の申し子みたいな世代で、戦後すぐの”焼跡ヤミ市”で育った世代である。野坂氏の直木賞作品「火垂(ほたる)の墓は、氏が少年時代体験した、神戸空襲で義父を失い、その後疎開した福井で実の妹を栄養失調で亡くした実話を私小説風に書いたものだ。

僕はこの時代、東京に住んでいて何度か空襲にあっているが、幸い被害はなかったが、強制疎開で家をこわされ、一人しかいない姉弟の姉を栄養不良と動員による過労で結核で亡くしている。戦時中は多かれ少なかれ、日本人の大半が同じような過酷な体験をしている。

野坂氏の破天荒ともいえるき生き様は同世代の僕にはよく理解できるが、同調できない点もある。氏の一貫した考え方は氏が昭和49年参院選に立候補したときのスローガン”ニ度と飢えを子供たちに与えるな”で象徴される平和主義であった。僕もこれには賛成で異論はない。しかし、野坂氏の絶筆となった雑誌「新潮45」のエッセーの中で氏は”戦前の時代がひたひたと近づいてる”と最近の日本の世相に警告しているとのこと。原稿を全文読んだわけではないし、亡くなった氏には失礼だが僕にはそうとは思えない。

野坂氏は"戦争は亡くなった英霊に対して無礼である”旨述べられていたそうだが、僕もその通りだと思う。しかし、野坂氏が杞憂するような戦前の時代がが、ひたひたと押し寄せてきているとは思えない。日本人はそんなにバカではない。日本人の英知を信じてよいのではないか。

嬉しいニュース 日本産農水産物の輸出が史上最高

2015-12-10 06:47:10 | 2012・1・1
地味なニュースだが、新聞の経済面の片隅に今年1月から10月までの農林水産物食品の輸出が前年比23パーセント増、総計6029億円と過去最高を記録した、と載っていた。世界的な健康志向、食の安全から、日本の農水食品が見直されてきた証拠である。額はまだ小さく、地域も香港、台湾、中国と限定されているが、将来を展望すると喜ばしいニュースである。

ネット情報を渉猟していたら、香港で人口の2割を会員に持つ「HTVモール」が今年10月から、日本産の野菜と果物を直輸入し、これをパッケージにして、日本円で7千円程度で宅配業務を始めたが、なかなか好評のようである。

中国ではここ数日大気汚染が最悪の状態のようである。4段階の汚染度は最高で「赤色警戒」が発令されて日本人学校も閉鎖されている。テレビで北京市内の画面を見ると、どんよりと曇っていて街行く市民はみなマスクをしている。これでは、香港市民は大陸からの食品はいくら安くとも買う気持ちにはならないだろう。

対外輸出で注目されるのが何点かある。例えば輸出先がアジアだけでなくオランダやアフリカまで広がっている。まだ数量や金額はすくないが、日本食ブームにのって将来世界各地の市場を開拓できるチャンスである。驚いたのは、林産物や木材まで前年比25,5パーセントの伸びをみせていることだ。
国土の7割が森林であるわが国である。かっては木材の輸出など考えられなかったことだ。TPP体制下でも知恵をだせば、発展できる。

忘れられかけてきた「12月8日」

2015-12-09 07:55:35 | 2012・1・1
昨日「12月8日」、毎年恒例の同期入社会があった。半世紀以上も前、同じ新聞社に入社した会だが、およそ30人いた仲間も亡くなったり、病気で来れなかったりで参加者は僅か7人。時代の推移を感じる。僕らが「12月8日」を会の日に固定したのは特別意味があったわけではない。僕ら世代にとっては「12月8日」は忘れられない日であり、覚えやすいからにすぎない。

昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発したとき、僕は国民学校(小学校)の5年生だったが、その日の事を憶えている。寒い朝だった。僕は家の隣にあったガレージの横の広場でトラックの運転手と一緒に焚火に手をかざして暖っていたら、亡母が朝食だと呼びに来て、家に帰ると箪笥の上のラジオから陸海軍がハワイを奇襲攻撃し、米英両国に宣戦を布告した旨の臨時ニュースが流れていた。

子供だったので、「12月8日」というと、焚火の場面だけが強烈な印象として残っているが、当時は東京では冬の風物詩のように焚火が各地で見られた。後年知ったことだが、NHKラジオの幼児の時間に、”垣根の垣根の曲がり角 焚火だ焚火だ”で始まる童謡「たき火」が12月9日から11日まで放送される予定になっていたが、戦争が始まったため、それどころではないと急きょ中止された。理由は敵機の攻撃目標になるといことと、落葉とて貴重な燃料資源だということだったという。

亡父が残した当時の日記によると、東京では12月8日から10日までの3日間、夜間警戒警報が発令されていたが、9日の父の日記には”世間一般ようやく緊張の色あり”との記述もある。緒戦の大勝利の報に酔っていたが、一大事だとの意識も出始めていた。童謡「たきび」の発表中止の世相が理解できる。今、「12月8日」といってもどれだけの日本人が大東亜戦争勃発した日と答えられるだろうか。忘れられかけ始めてきている。


医師報酬の増額と高額医療費の見直し

2015-12-08 06:26:40 | 2012・1・1
大腸がんの再発手術を前に昨日、PET.CT検査があった。PET.CT検査とは、がん細胞を見つけるための「陽電子放射断層撮影」検査のことだ。微量の放射性検査薬を注射して、血液内の反応から、がん細胞を発見する仕組みのようである。5年ほど前までは、健康保険適用外の検査だったが、今は窓口負担3割で実施出来るよになったが、高額の検査である。

先日、後期高齢者医療広域連合から昨年度の僕と老妻の医療費通知が届いた。昨年は僕が大腸ガン、老妻が乳がんで入院手術をしており特別高額なのだが、医療費は二人併せると、二人の年金額よりはるかに多い。実際に支払った額は、その3割だが高額である。これでは、わが国の医療福祉制度が破綻をきたすのも無理がない。

昨日の新聞に平成28年度の診療報酬改定をめぐり、”高額医療費”見直しを担保にして医師の診療報酬を僅かだが値上げしようという案が出ていた。記事を読んだだけではよく解からないが、高額医療費見直しとは、現在70歳以上の高齢者の優遇自己負担額を、現役並みに引き上げるようにするものらしい。

わが家の今年の医療費窓口負担は3割である。1割と3割との判定基準は市民税課税が年145万円以下か以上である。わが家はその基準のボーダーライン上にあるらしく、年によって1割になったり、3割になったりするが、1割と3割とでは年金生活者ではその重みはずっしりと違う。70歳から75歳までの前期高齢者の窓口負担は2割と3割である。億万長者とかろうじて多少ボーダーラインを超える僕らのような年金主体の生活者が同じ3割では公平さに欠ける。例えば後期高齢者医療にも2割を設けるとか、もっときめの細かい制度にしてほしい。

「ファルーク」の犯罪 米国内のイスラム教徒

2015-12-07 05:30:58 | 2012・1・1
米国カリフォルニア州の小さな町で起きた銃による14人殺傷事件はIS(イスラム国)支持者のテロ事件だとFBI(連邦捜査局)は断定しているようだ。この事件の犯人、サイード.ファルーク(28)が逮捕された時、僕はその名前からアラブ系移民の犯罪だと判った。サイードもファルークもアラブ人にはよくある名前で、とくに「ファルーク」は,エジプト王国最後の国王、ファルーク一世と同じ名前だ。

1950年代から70年代にかけて新聞社で中東問題を担当していた僕にとっては、ファルークの名前はなつかしい。1952年のエジプト革命でナセル(初代大統領)ら自由将校団によって国王の座を追われたファルーク一世を想い出す。当時、ぶくぶくした体型から”腐ったメロン”と評され悪名が高かった。

FBIの捜査では、犯人ファルークは直接ISとは、関係ないようだが、共犯のパキスタン出身の妻は、フェイスブックにISの指導者バグダディに忠誠を誓う内容文を投書していたとのこと。また二人の自宅からは大量の武器類などが発見されたという。その状況から、二人がISに同情していたのではないかと思われる。

英国のエコノミスト誌によると、米国内のイスラム教徒数は人口の1パーセントと推定され、英国の4.5、ドイツの5パーセントに比べれば比率は低いが,300万人近くはいるとみられている。ISにも100人以上の米国籍の若者が参加しているという報道もある。2002年の同時多発テロ以来、米国内でイスラム原理主義に共鳴したテロが216件も発生、72人の死者が出ているという報道もある。広い国土であり、多人種、多宗教の国である。テロ対策も大変だが、何とかこの変な風潮を国際的な協力で抑えこめないのだろうか。

"陸軍大将”の不祥事 タガの緩んだ日本社会

2015-12-06 06:35:03 | 2012・1・1
陸上自衛隊の元陸将(64)が在勤中、陸自の「教範」を東京のロシア大使館武官に渡したという守秘法に定めた自衛隊法違反で書類送検された。元陸将はは東部方面統監の経歴を持つ、言ってみれば、昔の”陸軍大将”であり、師団長だ。戦前”陸軍大将”といえば、雲の上的な存在である。なぜ、こんなお偉い方が、スパイまがいことをするのか信じがたい。

最近、僕ら年寄りからみると、何か社会のタガが緩んできたように見えてならない。陸将の不祥事を伝える同じ新聞紙面に、間違えば人間の生命にも関係する血液剤やワクチンの熊本のメーカーが、国の承認基準と異なる方式で血液をなんと昭和49年以来40年以上も製造していて、これが社内の常勤理事会で承認されていたという。同じような不祥事が先月、秋田の肥料会社でも発覚している。有機肥料成分を偽造しながら”有機肥料”としてJA経由で発売していた。農水省の検査の目を意識的に逃れていたという。

いつごろからの変な慣習だろうか。何か不祥事が起きると、関係者がテレビの画面で頭を下げて謝罪する。僕には何か白々しく見え、何かテレビ局の画面作りに協力しているとしか思えな。それも禿げ頭が多くて見苦しい。謝罪よりは、不祥事が起きないように日頃から、社会全体が最低,基本的なルールを守るべきなのだ。最近は社会の規範ともなるべき教員や警察官までスカートの下の盗撮といった破廉恥罪で捕まっている。一体何をかいわんやだ。社会全体のタガが、どかでで緩んでしまったとしかいえない。

インドネシア語訳「花は咲く」 日イの音楽交流

2015-12-05 06:23:29 | 2012・1・1
昨夕、東京目黒のホテルで催された在日インドネシア大使館イクバル教育文化部長夫妻の送別会に招かれ出席した。イクバル部長は3年半の任期を終え、マカッサル(スラウェシ島)のハサヌデイン大学の教職に戻られる。送別会には東京在住の「ラグラグ」会(インドネシアの歌の合唱グループ)や竹楽器アンクルンの演奏仲間が、夫妻に別れを告げてスラウェシの曲を歌い演じたが、一曲だけ日本の歌「花は咲く」を日本語とインドネシア語で参加者全員で合唱した。

実は「花は咲く」のインドネシア語版はイクバル部長夫人、メタさんがラグラグ会の依頼で訳したものである。メタさんは夫君の日本への赴任前から慶応大学に留学、日本文化を研究しており、日本語にも精通しておられる。その最初の部分をちなみに紹介してみよう。
▽ 花は咲く
真っ白な雪道に春風馨る 私はなつかしいあの街を想い出す 
叶えた夢もあった 変わりたい自分もいた
 今はただ懐かしい あの人を想いだす
▽ kucium bau angin musium bunga diatas jalan salju pitoh
ku teringat kota kenangan itu
ku nerasa sabgat merindunya ku ingin mengejar mimpiku
ingin ku ubah diriku
hanya dia yang ku ingat hanya rindu yang ku rasa didada ini

日イの音楽交流は70年以上にわたる。戦争中NHKラジオの「小国民の時間」の冒頭にインドネシア民謡「Rasa sayang」と「Nona manis」が流れていたのを知る世代は少なくなったが、音楽交流は、こうして新らしい花が咲いて行く。