大寒を過ぎ東京も今が最も寒い季節です。お見舞い申し上げます。階下の僅かばかりの庭に植えたアロエの花が真っ盛りです。緊急事態宣言下、外出自粛、Stay at home 、コロナ禍の終息と春の訪れが待ち遠しい。
コロナ.ウィルスの重症感染者が全国で1024人を記録した。前日に次ぐ1000人台で、死者も100人を超えた。こんな中で国会衆院で先の菅義偉総理の施政演説に対する質疑が行われた。久しぶりにテレビ中継を見たが、菅義偉総理に元気がなく逆に野党第一党、立憲民主党枝野幸男代表の質問はいつもの”上げ足とり”ばかりではなかった。
菅義偉総理は枝野代表の”なぜ緊急事態宣言の再発令が遅れたのか”といった質問に対して”専門家の意見を聞きながら判断した”通りいっぺんの返答をしている。専門家というのは、西村康稔経済再生相の”分科会の専門家なのか、それとも厚労省の中に別の専門家の組織があるのだろうか。だいたい、感染拡大を防止する組織の主宰するのが経済再生大臣なのはおかしい。おかしいといえば、コロナ.ワクチン担当大臣に河野太郎行政改革担当相の起用もそうだ。行政改革とワクチン接種と関係があるのだろうつぃうか。
緊急事態宣言の再発令とウラハラかのように菅義偉政権の支持率が低下、毎日新聞の最新の調査によると、支持率30%に対して不支持率57%と存立ボーダーラインに近づいている。残念ながら,安部晋三前内閣時代の後手後手の負の遺産もあって人気が急上昇するとは思えない。人気閣僚の起用というカンフル注射もよいが、ここは緊急事態宣言による対応策を地道に国民に呼びかける以外にないのかも。後手後手でも仕方がない。方向性だけ間違わず国のかじ取りお願いしたい。頑張って。
昭和20年(145年)3月22日,生まれて14年間育った揺籃の地、五反田を離れ、現在も住む柿の木坂の家に引越していた。3月10日の下町大空襲の後,東京では駅前や軍需工場周辺の家屋は軍の命令で強制的に撤去された。わが家も近くに藤倉ゴム工場があり、有無を言わせず退去が命じられた。
五反田から柿の木坂までは5キロほどだが、馬車で引越しした。戦争の激化で運送用のトラックは軍に徴用され、東京の町には依然馬糞が散見された。しかし、当時の柿の木坂はまだ藁ぶき屋根の農家があり、田畑も残っていて馬車が似合う町だった。昭和32年、青木光一が歌ってヒットした「柿の木坂の家」は作詞家の石本美由起が郷里の広島県大竹を詩にしたものだが、当時、目黒の柿の木坂と思っていた人が多かったほどだ。
この「柿の木坂の家」のある都立大学の地に通算すると70年以上住んでいる。途中、転勤、転職で郡山、札幌に12年、外国駐在などで8年、留守にしているが、人生の半分以上はこの地にお世話になっている。住めば都、僕にとっては去りがたい地だ。
生まれて14年間子供時代を送っにとって忘れられないのは池田、花房、島津三山だ。”三山”という呼び方はなかったが絶好な遊び場であた。普段は目黒川に沿った家の近所で遊んでいたが、飽きると悪童こぞって"三山”へ遠征したものだ。特に学校の裏山に位置する池田山と花房山へは週に一回はでかけた。
池田山は旧岡山藩主、池田家の下屋敷があったところで、花房山は家臣だった花房子爵の所有地であった。いずれも山というより小高い丘であり、すでに昭和10年代には高級住宅地となってきていた。上皇后陛下、美智子さまの実家、正田家のお住まいもその一角にあり、僕らはモチ竿をもってセミやトンボを追いかけた。花房山は、省線(JR)山手線の五反田と目黒駅との間にあった。道路に添ったがけからは清水が流れていた。
島津山は都電(市電)の停留所を越えて御殿山方向へ行く繁華街「中通り」を抜けていった。「中通り」すぎて坂をぼると一角だけ鬱蒼と古木が茂っていた。徳川時代は伊達藩の下屋敷があったが、維新後島津藩の手にわたり藩主だった池田侯爵が敷地内に洋館建ての家を建てられたが、普段は住んでおられなかったのか、子供が自由に出入りできた。今、清泉女子大学のキャンパスのあるあたりだ。
江戸時代農家であった母親の実家の当たりは省線(JR)の開通で一挙に開発され、駅から目黒駅方向に向かった土手下一帯が三業地にあった。三業地とは芸者置屋,見番(紹介所)待合(料亭)の三業からなる独特の芸者街の制度だ。僕らの学校の通学路にあたっていたので、灯しびころになると、置屋から待合に向かう人力車に乗った芸者さんをよく見かけたものだ。
駅前の都電(市電)の停留所前から御殿山方向へ向かう大通りの脇道を”中通り”と呼んでいたが、道の両側カフェで一杯だった。ネオンが輝き派手な衣装の女給さんが店の前にたっていて、子供たちは出入り禁止であった。
その反面五反田は、町工場の町でもあった。目黒が沿いに原っぱの脇に小さな工場が立ち数人規模の工員さんたちが働いていた。三業地やカフェ街はこの関係者でにぎあったのだろ。昭和16年戦争が拡大するまでの五反田は、夜になると夜店が出てにぎわったものだった。
(馬齢を重ね「卆寿」を祝う齢になった。人生百歳時代、行く末より越し方がはるかに長く恋しくなってきた。小ブログは昨年、二回の折に触れて自分の海外旅行記を連載で紹介した。今回はその国内編。題して「"47都道府県{ 住んだ町」「旅した町」”。2008年、他のブログ”1000都物語"で連載したものをリライトした)
生まれ故郷の五反田から始める。僕の戸籍謄本を見ると、昭和6年(1931年)2月、東京府荏原郡大崎町生まれとある。今の東京都品川区東五反田である。JR山手線五反田駅近くの目黒川に沿った地域だ。ここで昭和20年3月、戦争よる建物強制疎開で家を壊されるまで14年間住んでた。
家は母親の実家が江戸時代から続く旧家の敷地内にあった。目黒川から直線距離にすれば100mほどで、母親の話では”五反田の地名のように、昔は一しえん面田んぼの中を目黒川の清流が流れている江戸の田舎であった。明治26年生まれの母親は少女時代、水遊びをしたという。
僕が少年時代を送った当時の目黒川は流域に町工場などが張り付き,下水道が整備されていなかった汚染が始まっていた。川の所どころにには家庭の汚わいを東京湾に運ぶダルマ船の船着き場があった。しかし、一方季節にはマルタ(魚)が大挙して遡上してくることがあった。
上流の目蒲線不動前前近くには植物園があり、孔雀が羽を広げるのを見に行ったり,粘土細工の材料をとりに原っぱへ遠征した。まだまだ自然が豊富に残っていた。
広島県を緊急事態宣言対象地域に追加する話にからんで広島市の中心部の住民80万人に対してPCR検査を無料で希望者に対して接種する計画が進んでるという。医学には門外漢だが、PCRは新規感染者の発見には役立つが、治療薬ではない。ちょっと首を傾げたくなる。
昨日15日の東京の新規感染者は2002人、神奈川872人、千葉504人、埼玉490人と当初緊急事態宣言下に置かれた首都圏1都3県が圧倒的に多い。このうち、PCR検査によって陽性と判明した数はわからないが、東京都の23区、市町村別累計患者数によると、PCR検査に力を入れている世田谷区(6090人)と歌舞伎町など繁華街のある新宿区(5376人)ダントツに多い。
陽性即死に至る”重症患者”ではないのだが、庶民はどうしても日々の患者数にとらわれがちだ。一喜一憂は精神的によくない。政府はマスコミへの対応を一考してはどうか。今、国が最も急いですべきはワクチン接種である。菅義偉総理は2月末までに接種を開始するとしているが、具体策を明示してない。すでにコロナで援助約束した国の大統領でさえ、中国産のワクチンの接種を受けている。”アベノマスク”の二の舞では困る
今年もはや半月、早いものだ。1月15日といえば、つい最近までは「成人の日」だったが、祝日法の改正で今はハッピーマンデイとか1月の第二月曜に移動してしまった。昔から1月15日は「小正月」と言って伝統行事のある”由緒或る”日なのにもったいない。
「小正月」は地方によって違うが、「左義長」「どんど焼き」など正月の飾り物を神社に持ち寄り焚く行事が多い。また来る年の無病息災を願って病魔を追い出す行事をするところもある。戦前昭和の時代、東京23区でも僕ら子供は「どんどん焼き」といって楽しみにしていたが、それより朝、母親が作った小豆粥を食べたことが忘れられない。
しばらくわが家では小豆粥を食べる習慣を忘れていたが、コロナ禍退散を願い夫婦二人で食べた。子供の時、砂糖いっぱいかけて食べたあの味とは違ったが。
菅義偉総理が昨夕の記者会見でコロナ.ウィルスが感染拡大中の大阪など二府五県を新たに緊急事態宣言対象地域に指定した。東京ほか三県の首都圏に次ぐもので、こで全国で十一都府県が対象地域となった。菅義偉総理は”全国への拡大防止策としているがー。是非そうあってほしい。
しかし、加齢によるものだろうか。老生には政府のコロナ対応策は"後手後手”それも”小出し小出し”すぎるのではないか。一か月前の昨年12月12日お小ブログは”緊急事態宣言の再発が必要と提唱してる。当時東京のげん新規感染者は600人台へと急増の兆しが見え始め”勝負の三週間”が言われてたが、一方では」”go to トラベルのこだわりがあった。
緊急事態宣言の全国拡大について西村康稔経済再生相は国会答弁で否定的な発言をしているというが、”後手後手”にならなければよい。京都大学の西浦博教授は宣言解除の時期を間違えれば四月に再流行があると警告している。政治に引きずられない舵取りを願いたい。
毎週水曜日は足腰のリハビリで介護施設へ通園の日だが、迷った挙句やはりやめた。要介護3の老人、通園日は週一回、外界の空気に触れる楽しみの日である。しかし、東京は緊急事態宣言下にあり、連日感染者が拡大している。しかも僕がお世話になっている施設でも年末、併設の病院で入院患者と職員3人に陽性者が出ている。どうなることになるか心配していた。政府は繰り返し不要不急の外出自粛を呼び掛けている。この施設は昨年の緊急事態の時は、いち早く自発休業している。早晩そうなるのかと思っていた。
そんな毎日の中で、昨日NHKのテレビ番組をみていたらテロップで”介護施設にはは十分な感染防止策をとった上で、事業継続を要請”という情報が流れていた。緊急事態宣言の一環なのかどうかわからないが、要介護の老人にとっては歓迎すべき情報だ。しかし、実際に直前感染者が出た施設にお世話になるのは”勇気がいる”ことだ。ハムレットのセリフ”to be or not to be"の心境だが、やはり宣言が終わるまではリハビリをお休みすべきなのだろうか。
昨年の緊急事態の宣言下、1か月リハビリを休んだ体験からサービス事業の続行は是非お願いしたいのだが、やはり最後の決断は自分本人であるが、政府の具体的な情報が少ない気がする。