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「知」の魅力と限界を感じた一冊だった。
最終章までは久しぶりにヒット本に出合ったと思った。近現代世界史を政治、社会思想、文学等の緒側面から、国や地域を超えて縦横無尽に俯瞰する。市民講座の講義録を書籍化した作りだが、議論の射程は広く、内容も深いので、授業を受けているかのような臨場感の中、知的好奇心が刺激される。
筆者の博覧強記ぶりは終始、感嘆しっぱなし。博識が過ぎて話題があちこちに飛ぶ難点はあるが、単なる物知りではなくて、知識というのはこう活用して世界、社会を見る軸にするのだなあと感心する。「インテリ」ってこういう人なのだろう。
ただ、ずーっと感心しっぱなしだった本書だが、最終の第十一講「日本の苗代を取りもどしたい」で梯子を外されたというか、ずっこけた。近現代の世界史を俯瞰し、「さあこれからの日本はかくあるべき・・・」という勢いで読み始めた本章の記述があまににも定性的、抽象的で、パンチの欠けたものであったからだ。
筆者は、清少納言が見ていたような「小さな変化」を見立てる日本人のものの見方が好きだという。また、高谷好一さんという農業研究者の著作を引きつつ、日本の良さは、稲作に見られる、いったん蒔いた種を「苗」にして、それを再び田植えで移し替える「苗代」の方法だともいう。それなのに、現代の日本は「日本という方法」によらずして、アメリカの新自由主義経済を取り入れている。「リスクすら商品化してしまうアメリカン・リスク・マネジメントの趨勢に対決できるのは、ひょっとすると、このような日本人の「小さな変化」を見立てられる力なのではないか」「また、天変地異をひょいひょいと自然哲学や俳諧にしてしまう才能が、新自由主義の金融工学に刃向かえる力ともいえるんじゃないでしょうか。」(p447)と主張する。
これは、あまりにも現実の経済社会の中で生きる私たちには、あまりにも空疎で、第三者的で、力を持たない言葉だ。これが、それまで縦横無尽、複眼的に近現代世界史を思考してきた末のメッセージなのか?あまりにもこの著者の「知」の無力ぶりにがくっと力が抜けてしまった。これでどうやって現実のグローバル資本主義、格差問題、宗教戦争などなどと向き合いながら生きていけるのか。
もちろん本書は生き方指南書ではないので、現代に生きる処方を期待する方が間違いなのかもしれない。ただあまりにも、筆者の専門分野である「編集」を活用した近現代史の解説がエキサイティングだっただけに、今の問題に力を持たない「知」って一体何なのだろうか。と、多少なりとも、「知」の力を信じたい私には相当ショックとなる一冊となった。
目次
第一講 ネーション・ステートの謎
第二講 エリザベス女王とリヴァイアサン
第三講 将軍の国と華夷秩序
第四講 列強の誕生とアジアの危機
第五講 開国の背景に何があったのか
第六講 明治日本の戦争と文化
第七講 社会も国家も進化しつづける?
第八講 カフカとフロイトの部屋
第九講 二つの世界戦争のあいだ
第十講 資本と大衆の時代
第十一講 日本の苗代をとりもどしたい
おわりに――苗代の知恵