概念というのは、仮定され、推定され、検証され具現、具体化するが、人間の生活に最も溶け込んでいる「時間」は未だ概念のままだ。
科学はもちろん、宗教、哲学をもってしても、その実態は謎のままだ。
古来から著名な科学者や宗教家、哲学者がそれぞれ勝手に定義しているが、万人を納得させる決定打はない。
たぶん永遠に概念のままなのだろう。
その時間という概念の中に、過去、現在、未来という、これもまた概念が存在する。
その概念で遊んでみよう。
時間を過去から現在、現在から未来へと流れるものと仮定すると、認識できるのは過去と現在だ。
厳密にいうと現在というのはある瞬間で、それは認識した時にはすでに過去となっている。
ということは、現在というものは存在しないことになる。
未来も認識できないので存在しないことになる。
存在するのは過去だけだ。
それも記憶や記録としての存在だ。
それでは現在や未来という概念も存在しなくなる。
ここで私にとっての過去、現在、未来観が登場だ。
私が生まれてから死ぬまでが現在で、それ以前が過去、それ以降が未来という考え方だ。
時間という概念は無視だ。
生まれる前の世界があったのかどうかは記録に拠るところしかない。
死んだあとは想像しかない。
太古の昔も明治時代も第二次大戦も私には何の関係も影響もない。
死んだあと世界がどうなろうが、それも関係ない。
俗にいう、今を生きる、今日を生きるということは、現在を生きるということで、それは私の考え方からいえば、生まれてから死ぬまでの、人生という現在を生きるということだ。
自然に生きていれば今を生きているということだ。
*本日のキリ番ナンバープレート
9000、6000、1000、8000、5000、2000
科学はもちろん、宗教、哲学をもってしても、その実態は謎のままだ。
古来から著名な科学者や宗教家、哲学者がそれぞれ勝手に定義しているが、万人を納得させる決定打はない。
たぶん永遠に概念のままなのだろう。
その時間という概念の中に、過去、現在、未来という、これもまた概念が存在する。
その概念で遊んでみよう。
時間を過去から現在、現在から未来へと流れるものと仮定すると、認識できるのは過去と現在だ。
厳密にいうと現在というのはある瞬間で、それは認識した時にはすでに過去となっている。
ということは、現在というものは存在しないことになる。
未来も認識できないので存在しないことになる。
存在するのは過去だけだ。
それも記憶や記録としての存在だ。
それでは現在や未来という概念も存在しなくなる。
ここで私にとっての過去、現在、未来観が登場だ。
私が生まれてから死ぬまでが現在で、それ以前が過去、それ以降が未来という考え方だ。
時間という概念は無視だ。
生まれる前の世界があったのかどうかは記録に拠るところしかない。
死んだあとは想像しかない。
太古の昔も明治時代も第二次大戦も私には何の関係も影響もない。
死んだあと世界がどうなろうが、それも関係ない。
俗にいう、今を生きる、今日を生きるということは、現在を生きるということで、それは私の考え方からいえば、生まれてから死ぬまでの、人生という現在を生きるということだ。
自然に生きていれば今を生きているということだ。
*本日のキリ番ナンバープレート
9000、6000、1000、8000、5000、2000