赤トンボがガードレールの支柱の上に止まっていた。
とりあえずそっと近づいて、人差し指を立てて、クルクル回しながら捕獲を試みる。ほとんどの場合、その時点で赤トンボは身の危険を感じて飛び去ってしまう。
でも今日は違った。
人差し指が目と鼻の先に近づいても微動だにしない。試しに羽に触っても何の反応もない。
残酷な子供の頃の僕だったら、捕まえて羽をむしって、頭と胴体を引きちぎり、そのへんの草むらに捨てていたはずだ。
今年就職して社会人になった僕は、いわゆる良識人だ。そんなことはしない。それに逃げない赤トンボなんて、捕まえるに値しない。
近くからよく見ると、赤トンボの頭のてっぺんに、何かキラキラ光る針のようなものが突き出ている。
それを引っ張ると簡単に抜けた。
五ミリほどの針の先が、人工衛星の太陽光パネルのようにパタパタと展開して、スマホのSIМカードの半分くらいのチップ基板になった。
目を凝らして見ても、なんの基板なのか、もちろんわからない。
ふと見ると赤トンボはどこかに消えていた。
考えることはいろいろあったが、取引先との商談時刻が迫っていたので、僕は基板をワイシャツの胸ポケットに入れ、目的地へ急いだ。
取引先から直帰した夕方、一人暮らしのワンルーム・マンションのインターホンが鳴った。
ドアスコープを覗くと、僕と同じくらいの歳の女の子が立っていた。
「お邪魔してもいいですか?」
ドアを開けた僕に言うと、答えを待つこともなく、彼女はサンダルを脱ぎ、僕の横をすり抜けて行った。
あわててあとを追った僕と彼女が、部屋の真ん中で正対する。
背は僕の肩ほど、茶色のショーヘア、くっきりした目鼻立ち、白いTシャツにタイトなジーンズ、なかなかの美形だ。
「どちらさんですか?」
住居侵入者にかける言葉にしては間が抜けていた。
「誰でもいいの。チップを返して」
「チップ?」
「トンボのチップ」
商談でやらかした失敗で、赤トンボのこともチップ基板のことも忘れていた。
僕は洗濯機の中に放り込んでいたワイシャツのポケットを探った。
「これかい?」
僕は基板をつまんで彼女に見せた。
「そう、それよ」
彼女は手を伸ばしてそれを取ろうとした。
「返してって言ったよね。でも、これ、君から取ったんじゃないぜ」
僕は基板を持った手を後ろに回した。
「でも、それ私のものなの」
「証明できる?」
「できない。でもそれがないとうちへ帰れないの」
喋っていて気づいたのだが、彼女は美形のわりに表情に乏しく、言葉に抑揚がない。クールビューティというのでもない。
「ここへ座って説明してよ」
僕は彼女をベッドに座らせ、パソコンデスクの椅子に腰を下ろした。
「それがないと座標確認ができないの。時間流が通過するまでにそれが必要なの」
「何、それ。何かのアニメのセリフ?」
「それ以上詳しく翻訳できないの」
静かな動揺が伝わる。
「まあ、これでも飲んで落ち着いたら?」
僕は飲みかけの缶ビールを差し出した。
彼女は半分くらい残っていたビールを一気に飲み干した。
「わかるように説明してよ」
「風船にセロテープを貼って、針を刺しても割れないでしょう? でもテープがなかったら割れるよね。風船がこの世界、テープが私、時間流が針」
「要するにこの世界の危機が近づいてるんだ?」
そう言葉に出してみると、そんな気がしないでもない。
「そうなの」
切迫感のない返事が、逆に妙な危機感を与える。
僕は基板を彼女に渡す。
彼女はそれを口に入れ飲み込んだ。
一瞬の眩しい閃光のあとに、彼女の姿は消え、開け放った窓から、一匹の赤トンボが夕焼けの空へと飛び立っていった。
考えるべきことはいくらもあったが、たぶん結論は出ないだろうから、僕は冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出し、タブを引き上げた。
とりあえずそっと近づいて、人差し指を立てて、クルクル回しながら捕獲を試みる。ほとんどの場合、その時点で赤トンボは身の危険を感じて飛び去ってしまう。
でも今日は違った。
人差し指が目と鼻の先に近づいても微動だにしない。試しに羽に触っても何の反応もない。
残酷な子供の頃の僕だったら、捕まえて羽をむしって、頭と胴体を引きちぎり、そのへんの草むらに捨てていたはずだ。
今年就職して社会人になった僕は、いわゆる良識人だ。そんなことはしない。それに逃げない赤トンボなんて、捕まえるに値しない。
近くからよく見ると、赤トンボの頭のてっぺんに、何かキラキラ光る針のようなものが突き出ている。
それを引っ張ると簡単に抜けた。
五ミリほどの針の先が、人工衛星の太陽光パネルのようにパタパタと展開して、スマホのSIМカードの半分くらいのチップ基板になった。
目を凝らして見ても、なんの基板なのか、もちろんわからない。
ふと見ると赤トンボはどこかに消えていた。
考えることはいろいろあったが、取引先との商談時刻が迫っていたので、僕は基板をワイシャツの胸ポケットに入れ、目的地へ急いだ。
取引先から直帰した夕方、一人暮らしのワンルーム・マンションのインターホンが鳴った。
ドアスコープを覗くと、僕と同じくらいの歳の女の子が立っていた。
「お邪魔してもいいですか?」
ドアを開けた僕に言うと、答えを待つこともなく、彼女はサンダルを脱ぎ、僕の横をすり抜けて行った。
あわててあとを追った僕と彼女が、部屋の真ん中で正対する。
背は僕の肩ほど、茶色のショーヘア、くっきりした目鼻立ち、白いTシャツにタイトなジーンズ、なかなかの美形だ。
「どちらさんですか?」
住居侵入者にかける言葉にしては間が抜けていた。
「誰でもいいの。チップを返して」
「チップ?」
「トンボのチップ」
商談でやらかした失敗で、赤トンボのこともチップ基板のことも忘れていた。
僕は洗濯機の中に放り込んでいたワイシャツのポケットを探った。
「これかい?」
僕は基板をつまんで彼女に見せた。
「そう、それよ」
彼女は手を伸ばしてそれを取ろうとした。
「返してって言ったよね。でも、これ、君から取ったんじゃないぜ」
僕は基板を持った手を後ろに回した。
「でも、それ私のものなの」
「証明できる?」
「できない。でもそれがないとうちへ帰れないの」
喋っていて気づいたのだが、彼女は美形のわりに表情に乏しく、言葉に抑揚がない。クールビューティというのでもない。
「ここへ座って説明してよ」
僕は彼女をベッドに座らせ、パソコンデスクの椅子に腰を下ろした。
「それがないと座標確認ができないの。時間流が通過するまでにそれが必要なの」
「何、それ。何かのアニメのセリフ?」
「それ以上詳しく翻訳できないの」
静かな動揺が伝わる。
「まあ、これでも飲んで落ち着いたら?」
僕は飲みかけの缶ビールを差し出した。
彼女は半分くらい残っていたビールを一気に飲み干した。
「わかるように説明してよ」
「風船にセロテープを貼って、針を刺しても割れないでしょう? でもテープがなかったら割れるよね。風船がこの世界、テープが私、時間流が針」
「要するにこの世界の危機が近づいてるんだ?」
そう言葉に出してみると、そんな気がしないでもない。
「そうなの」
切迫感のない返事が、逆に妙な危機感を与える。
僕は基板を彼女に渡す。
彼女はそれを口に入れ飲み込んだ。
一瞬の眩しい閃光のあとに、彼女の姿は消え、開け放った窓から、一匹の赤トンボが夕焼けの空へと飛び立っていった。
考えるべきことはいくらもあったが、たぶん結論は出ないだろうから、僕は冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出し、タブを引き上げた。
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