8月15日の今日、休みをとって父方の祖父と母方の祖父母のお墓参りに大阪へ出かけました。正確には、父方の祖父の方はお墓はなく、とあるお寺にお骨を納めているので、そのお寺にお参りに行ったわけですが、母方の方は別の大阪のお寺にお墓があって、墓地の清掃とお供え、それに墓前で般若心経を唱えて、しばし在りし日の祖母の姿を思いました。父方の祖父は小学校6年生の時、母方の祖母は4つになる少し前に亡くなっており、それぞれ年齢に応じた分の記憶を持っておりますが、母方の祖父は私が生まれる前に亡くなっているのでもちろんどんな方だったのか、記憶にはありません。ただ、それらの人々が、明治期に生まれ、大正から昭和初期に青春時代を過ごし、戦中戦後の混乱を乗り越えて我が父と母を育て上げたという雄渾壮大な時の流れを思うにつけ、自然と『すごい人達だった』という素朴な尊敬の念が湧いてきます。
例えば祖父が満州に一家で渡り、妻や子供達を失う辛酸を舐めながら帰国するくだりは父からもよく聞かされておりますが、その当時の祖父の年齢は、と考えてみると、ちょうど今の私の年齢とほぼ重なってきます。では、もし私が同じ境遇に置かれ、満州から引き上げねばならない状況にあったとして、妻や子供たちを守りつつ果たして無事帰国できたかどうか。どう考えてみても悲観的な光景しか想像できません。もちろん当時の社会の中で私が生まれ育っているわけではないので、あまり意味のある想像ではないのですが、それでも大勢の方が道半ばに倒れていく中で、父を含む6人の兄弟姉妹と妻を連れ、最終的に子供5人を無事本土まで連れ帰り、戦後の混乱期を乗り切ってそれぞれを独り立ちさせた力は、想像を絶するものがあります。
母方の祖母は大阪・京橋辺に住まいしてはおりましたが、戦中は空襲を生き延び、戦後の物のない時代を乗り越えて早くに亡くなった夫の分まで母や叔父を育ててられたのですから、今の私などからは考えられない経験を重ねられていたわけです。
更に考えてみると、その過去には膨大な数の先祖が連なり、それぞれの時代をそれぞれの力で精一杯に生きて子孫を繋いでいかれたわけで、その末に私が居るということを改めて意識してみると、実に奇跡的な、古式の意味合いでの有り難い話だったと思わざるを得ません。そのありがたさに感謝の念を強くするとともに、いずれ先祖の一柱の末席に連なるであろう時までに、私自身が次の世代に何を継承し、何を残してやれるのか、しっかりと考えていかねばならないという意を強くいたしました。
例えば祖父が満州に一家で渡り、妻や子供達を失う辛酸を舐めながら帰国するくだりは父からもよく聞かされておりますが、その当時の祖父の年齢は、と考えてみると、ちょうど今の私の年齢とほぼ重なってきます。では、もし私が同じ境遇に置かれ、満州から引き上げねばならない状況にあったとして、妻や子供たちを守りつつ果たして無事帰国できたかどうか。どう考えてみても悲観的な光景しか想像できません。もちろん当時の社会の中で私が生まれ育っているわけではないので、あまり意味のある想像ではないのですが、それでも大勢の方が道半ばに倒れていく中で、父を含む6人の兄弟姉妹と妻を連れ、最終的に子供5人を無事本土まで連れ帰り、戦後の混乱期を乗り切ってそれぞれを独り立ちさせた力は、想像を絶するものがあります。
母方の祖母は大阪・京橋辺に住まいしてはおりましたが、戦中は空襲を生き延び、戦後の物のない時代を乗り越えて早くに亡くなった夫の分まで母や叔父を育ててられたのですから、今の私などからは考えられない経験を重ねられていたわけです。
更に考えてみると、その過去には膨大な数の先祖が連なり、それぞれの時代をそれぞれの力で精一杯に生きて子孫を繋いでいかれたわけで、その末に私が居るということを改めて意識してみると、実に奇跡的な、古式の意味合いでの有り難い話だったと思わざるを得ません。そのありがたさに感謝の念を強くするとともに、いずれ先祖の一柱の末席に連なるであろう時までに、私自身が次の世代に何を継承し、何を残してやれるのか、しっかりと考えていかねばならないという意を強くいたしました。
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