ここへ来てこれまでの夏の帳尻合わせをするかのごとく猛暑にふさわしい日が連続していますが、今日は県内でもとびきりの暑さを誇る(?)北の端、奈良市まで出張でした。普段は山の中の平地よりは少しは涼しいところで仕事をしているせいか、この暑い奈良盆地での昼間の仕事は秒ごとに体力がそぎ落とされていくのが実感されかねないほど、半日足らずですっかり消耗してしまいました。まだ今日は火曜日、週の半ばにも達していないんですが、こんな調子で無事土曜日を迎えられるのでしょうか?(笑)
さて、ニュースを閲覧していましたら、ちょっと面白いのを見つけました。血液型人間学、という研究を行っている、と主張されている岡野誠氏なる人物が、放送倫理・番組向上機構(BPO)を相手取り、訴訟を起こされたのだそうです。いわく、「血液型は科学的な根拠が証明されておらず、それで人を分類するのは、社会的差別に通じる危険がある。血液型で性格が決まるといった見方を助長しないよう各局に求めた」ことが、血液型に関する放送の自粛、岡野氏のメディア出演機会の喪失につながり、いい加減なものとレッテル貼りされて精神的苦痛を受けた、のだそうです。
さて、ご本人は、血液型人間学は占いのようなまがい物ではなく、学術的なものだ、と主張されておられるそうですが、前々から、血液型とヒトの性格等を関連付ける説には何ら根拠がなく、いわゆる「疑似科学」に過ぎない、という見解が、学術的な見方です。社会心理学の分野では、血液型の判断が当たっているように見えたりするのは何故なのか、を研究するのがあって、そういう分野にとっては有益なものではありますが、ソレ以外は、血液型占いとして人々の会話の糸口、ちょっとした息抜きになる社会の潤滑剤、という以上の価値は無いと私は見ています。何故血液の中でもABOの型で分類される赤血球だけが、どういう仕組で人の性格などに影響を与えうるのか、赤血球のどの部分がどのように作用してヒトに影響を与えるのか、どうにも理解しがたいのです。
もちろん、これを研究をすること、その説を主張することは自由なのですが、ならば裁判に訴えたりするよりも、然るべき学会なりで発表され、他の研究者に対して情報を公開されるべきです。十分な説得力と魅力がその説にあれば、皆がこぞって追試して、その説の客観性を証明してくれるでしょう。そのためにも研究手法、データの集め方、集めたデータの内容、解析方法、統計処理等々についてきちんとまとめ、誰でも追試や検証が可能なように発表されるべきで、どのような分野の研究者であれ、およそ研究者ならば多かれ少なかれやられていることだと思います。まあ、所詮私は経済学とか法学とかで「研究」されているという事が本当に研究と呼んでいいのかどうか疑問に感じたりしてしまう、狭量な一介の自然科学者の端くれに過ぎませんので、血液型人間学、というのがどういう学問分野に相当し、その分野では実は十分研究に値する内容と判断されたりしていても容易にそれを理解出来ないおそれもあるのですが、いずれにしても裁判所に訴えるような性質のものでは全くないと思いますし、その行動自体が、学問としての血液型人間学を貶める行為になるのではないか、と危惧致します。
裁判がどのような経緯をこれから辿るのかはもちろん判りませんが、できればどういう風に展開されるものなのか、注視してみたい野次馬的興味だけは惹かれるニュースでした。
さて、ニュースを閲覧していましたら、ちょっと面白いのを見つけました。血液型人間学、という研究を行っている、と主張されている岡野誠氏なる人物が、放送倫理・番組向上機構(BPO)を相手取り、訴訟を起こされたのだそうです。いわく、「血液型は科学的な根拠が証明されておらず、それで人を分類するのは、社会的差別に通じる危険がある。血液型で性格が決まるといった見方を助長しないよう各局に求めた」ことが、血液型に関する放送の自粛、岡野氏のメディア出演機会の喪失につながり、いい加減なものとレッテル貼りされて精神的苦痛を受けた、のだそうです。
さて、ご本人は、血液型人間学は占いのようなまがい物ではなく、学術的なものだ、と主張されておられるそうですが、前々から、血液型とヒトの性格等を関連付ける説には何ら根拠がなく、いわゆる「疑似科学」に過ぎない、という見解が、学術的な見方です。社会心理学の分野では、血液型の判断が当たっているように見えたりするのは何故なのか、を研究するのがあって、そういう分野にとっては有益なものではありますが、ソレ以外は、血液型占いとして人々の会話の糸口、ちょっとした息抜きになる社会の潤滑剤、という以上の価値は無いと私は見ています。何故血液の中でもABOの型で分類される赤血球だけが、どういう仕組で人の性格などに影響を与えうるのか、赤血球のどの部分がどのように作用してヒトに影響を与えるのか、どうにも理解しがたいのです。
もちろん、これを研究をすること、その説を主張することは自由なのですが、ならば裁判に訴えたりするよりも、然るべき学会なりで発表され、他の研究者に対して情報を公開されるべきです。十分な説得力と魅力がその説にあれば、皆がこぞって追試して、その説の客観性を証明してくれるでしょう。そのためにも研究手法、データの集め方、集めたデータの内容、解析方法、統計処理等々についてきちんとまとめ、誰でも追試や検証が可能なように発表されるべきで、どのような分野の研究者であれ、およそ研究者ならば多かれ少なかれやられていることだと思います。まあ、所詮私は経済学とか法学とかで「研究」されているという事が本当に研究と呼んでいいのかどうか疑問に感じたりしてしまう、狭量な一介の自然科学者の端くれに過ぎませんので、血液型人間学、というのがどういう学問分野に相当し、その分野では実は十分研究に値する内容と判断されたりしていても容易にそれを理解出来ないおそれもあるのですが、いずれにしても裁判所に訴えるような性質のものでは全くないと思いますし、その行動自体が、学問としての血液型人間学を貶める行為になるのではないか、と危惧致します。
裁判がどのような経緯をこれから辿るのかはもちろん判りませんが、できればどういう風に展開されるものなのか、注視してみたい野次馬的興味だけは惹かれるニュースでした。