新国立劇場で上演中の芝居「鳥瞰図」。2008年6月に初演され、今回は再演。初演のときは観ていないので、わたしにとっては初めてだ。作者は早船聡(はやふね・さとし)さん。まだ若いかたで、本作は5作目のようだ(もちろんこれは、プロの公演で舞台化された作品としては、という意味だろう)。
初演がおこなわれた2008年ころ(つまり当時の「今」)の浦安を舞台にした芝居。浦安は1964年(昭和39年)から始まった埋め立て事業で飛躍的に拡大した。今の面積のうちの4分の3は埋め立て地。そこは東日本大震災で液状化が起き、大きな被害をうけた。本作が舞台にしているのは旧来の浦安(埋め立て地ではないほう)だ。
浦安はもともと江戸、あるいは東京の賑わいから離れた漁村だった。人々は魚や貝をとって生活していた。戦後も、埋め立て事業が始まるまでは、まだその名残を残していた。当時の浦安を面白おかしく描いたのが山本周五郎の「青ベか物語」だ。1960年(昭和35年)に執筆され、翌年刊行された。
わたしは今年4月に、液状化とはどのようなものかと、浦安に行ってみた。一言でいうと、街中ガタガタになっていた。ショックをうけて、昔の浦安を知りたくなり、「青ベか物語」を読んでみた。軽妙な筆致のなかに、人間への洞察、四季の美しさ、思いがけない迫力などがちりばめられていて、さすがは名作だと思った。
このように、浦安の歴史、あるいは浦安を舞台にした人間の営みを考えるなかで出会った芝居「鳥瞰図」。
浦安には今でも細々と釣り客のための船宿を営んでいる人たちがいる。本作はそのような船宿が舞台だ。船宿を経営する年老いた母とその息子(※)、そこに集まる個性的な面々。いずれも訳ありの人生を歩んでいるが、今を明るく生きている。
途中休憩なしの2時間5分の上演時間が、あっという間に過ぎた。大きな事件が起きるわけではない。笑いながら、わたしも船宿の常連のような気分になっているうちに幕がおりた。淡い光に満たされた透明感、といったものが舞台にあった。
演出の松本祐子さんは、早船聡さんとの対談で、本作を「とても幸せなファンタジー」と呼んでいる。そのとおりだ。登場人物たちは、みんななにかを失っている。それはもう取り戻せない。けれども今の生活に、喜びを見つける。それは今のわたしたちの状況には、切ないほどやさしく感じられた。
(2011.5.13.新国立劇場小劇場)
(※)煩瑣になるので根拠は省くが、息子(といってももう中年だ)は、「青べか物語」の登場人物の少年「長」(ちょう)が長じた姿かもしれない。
初演がおこなわれた2008年ころ(つまり当時の「今」)の浦安を舞台にした芝居。浦安は1964年(昭和39年)から始まった埋め立て事業で飛躍的に拡大した。今の面積のうちの4分の3は埋め立て地。そこは東日本大震災で液状化が起き、大きな被害をうけた。本作が舞台にしているのは旧来の浦安(埋め立て地ではないほう)だ。
浦安はもともと江戸、あるいは東京の賑わいから離れた漁村だった。人々は魚や貝をとって生活していた。戦後も、埋め立て事業が始まるまでは、まだその名残を残していた。当時の浦安を面白おかしく描いたのが山本周五郎の「青ベか物語」だ。1960年(昭和35年)に執筆され、翌年刊行された。
わたしは今年4月に、液状化とはどのようなものかと、浦安に行ってみた。一言でいうと、街中ガタガタになっていた。ショックをうけて、昔の浦安を知りたくなり、「青ベか物語」を読んでみた。軽妙な筆致のなかに、人間への洞察、四季の美しさ、思いがけない迫力などがちりばめられていて、さすがは名作だと思った。
このように、浦安の歴史、あるいは浦安を舞台にした人間の営みを考えるなかで出会った芝居「鳥瞰図」。
浦安には今でも細々と釣り客のための船宿を営んでいる人たちがいる。本作はそのような船宿が舞台だ。船宿を経営する年老いた母とその息子(※)、そこに集まる個性的な面々。いずれも訳ありの人生を歩んでいるが、今を明るく生きている。
途中休憩なしの2時間5分の上演時間が、あっという間に過ぎた。大きな事件が起きるわけではない。笑いながら、わたしも船宿の常連のような気分になっているうちに幕がおりた。淡い光に満たされた透明感、といったものが舞台にあった。
演出の松本祐子さんは、早船聡さんとの対談で、本作を「とても幸せなファンタジー」と呼んでいる。そのとおりだ。登場人物たちは、みんななにかを失っている。それはもう取り戻せない。けれども今の生活に、喜びを見つける。それは今のわたしたちの状況には、切ないほどやさしく感じられた。
(2011.5.13.新国立劇場小劇場)
(※)煩瑣になるので根拠は省くが、息子(といってももう中年だ)は、「青べか物語」の登場人物の少年「長」(ちょう)が長じた姿かもしれない。