新国立劇場の新制作「ローエングリン」を観た。
ロザリエによる美術・光メディア造形・衣装がまず目を引いた。現実から切り離された、近未来的な、飛んでる舞台だ。今年2月にラモーの「カストールとポリュックス」を観たが(ライン・ドイツ・オペラ)、そのときも同じような舞台だった。ラモーの場合は作品の性格上コミカルな味わいがあった。今回はそうはいかない。全体的に抑制されたトーンだった。
一方、シュテークマンの演出は影が薄かった。個々の演技は、なるほど、と思わせるところがあるが、総体としてのドラマは希薄だった。幕切れの子役(王子ゴットフリート)の演技も、そこに至るまでのドラマが不在なので、浮いていた。この点は以前の「さまよえるオランダ人」の幕切れの演出と似ていた。
実は、最初は、おもにドイツで流行の過激な演出の向こうを張った、あえてシンプルな演出かと思った。だがそういう見方は長くは続かなかった。期待は尻すぼみに終わった。
この舞台は安心・安全のマークが付いた商品のような感じがした。お手頃な値段の(といっても、けっして安くはない)良心的な商品。だがローエングリンの、エルザの、そしてオルトルートの、苦悩や葛藤はなかった。テルラムントの動揺もなかった。みんなこじんまりしていた。日常生活の枠内の人たちだった。
だからなのかもしれないが、こんなことを考えた――ローエングリンも、エルザも、オルトルートも、自己の存在に違和感をもっていたのではないか、と。ローエングリンは聖杯を守るモンサルヴァート城から下りてきた。エルザはローエングリンを夢見ていた。オルトルートは異教の神々を信じていた。みんなそれぞれこの世においては自己を異質だと思っていた。そのことがこの舞台では生きていなかった。さらにいうなら、普通の人テルラムントはこの3人に振り回された。ハインリヒ国王はこの3人の円環の外にいた。それらのことも生きてこなかった。
タイトルロールのクラウス・フロリアン・フォークトはすばらしかった。スターは誕生するものだ、と思った。各音域の均質性は驚異的だ。そしてその貴公子のような容姿。カーテンコールでは何人もの女性がオケピットまで駆け寄って拍手を送った。それも当然だ。
指揮のペーター・シュナイダーには年齢を感じた。全体を貫く気力が欠けていた。全盛期のシュナイダーは、こんなものではなかった。
(2012.6.13.新国立劇場)
ロザリエによる美術・光メディア造形・衣装がまず目を引いた。現実から切り離された、近未来的な、飛んでる舞台だ。今年2月にラモーの「カストールとポリュックス」を観たが(ライン・ドイツ・オペラ)、そのときも同じような舞台だった。ラモーの場合は作品の性格上コミカルな味わいがあった。今回はそうはいかない。全体的に抑制されたトーンだった。
一方、シュテークマンの演出は影が薄かった。個々の演技は、なるほど、と思わせるところがあるが、総体としてのドラマは希薄だった。幕切れの子役(王子ゴットフリート)の演技も、そこに至るまでのドラマが不在なので、浮いていた。この点は以前の「さまよえるオランダ人」の幕切れの演出と似ていた。
実は、最初は、おもにドイツで流行の過激な演出の向こうを張った、あえてシンプルな演出かと思った。だがそういう見方は長くは続かなかった。期待は尻すぼみに終わった。
この舞台は安心・安全のマークが付いた商品のような感じがした。お手頃な値段の(といっても、けっして安くはない)良心的な商品。だがローエングリンの、エルザの、そしてオルトルートの、苦悩や葛藤はなかった。テルラムントの動揺もなかった。みんなこじんまりしていた。日常生活の枠内の人たちだった。
だからなのかもしれないが、こんなことを考えた――ローエングリンも、エルザも、オルトルートも、自己の存在に違和感をもっていたのではないか、と。ローエングリンは聖杯を守るモンサルヴァート城から下りてきた。エルザはローエングリンを夢見ていた。オルトルートは異教の神々を信じていた。みんなそれぞれこの世においては自己を異質だと思っていた。そのことがこの舞台では生きていなかった。さらにいうなら、普通の人テルラムントはこの3人に振り回された。ハインリヒ国王はこの3人の円環の外にいた。それらのことも生きてこなかった。
タイトルロールのクラウス・フロリアン・フォークトはすばらしかった。スターは誕生するものだ、と思った。各音域の均質性は驚異的だ。そしてその貴公子のような容姿。カーテンコールでは何人もの女性がオケピットまで駆け寄って拍手を送った。それも当然だ。
指揮のペーター・シュナイダーには年齢を感じた。全体を貫く気力が欠けていた。全盛期のシュナイダーは、こんなものではなかった。
(2012.6.13.新国立劇場)