松本竣介展が開催中だ。生誕100年記念。「えっ、まだ100年なの?」と思った。もっと前の人かと思っていた。1912年生まれ、1948年没。わずか36年の短い生涯だった。
昔、大原美術館で「都会」(1940)をはじめて観たとき、ひじょうに惹かれた。居並ぶヨーロッパの名画のなかにあって、特別な存在感を主張していた。それ以来、今に至るまで、さまざまな作品を観てきた。いつも気になる画家だった。
本展はその画業を辿るものだ。約120点の油彩画と約60点の素描、そして手紙、写真、雑誌等の資料が展示されている。それらを観てわかったことは、松本竣介の画業が、第二次世界大戦をはさんだ激動の時代と完全にオーバーラップしていることだ。
松本竣介は1935年の「建物」で二科展に初入選した。これはルオーのように黒くて太い線で描かれた作品だ。が、すぐに作風が変わった。前述の「都会」(1940)をふくむ数点で頂点にたっしたその作風は、さまざまなイメージが重なり合うモンタージュとよばれる幻想的なものだ。チラシ(↑)に使われている「黒い花」(1940)もその一例だ。
しかし時あたかも第二次世界大戦に突入する時期。作品には、人通りがなく、うら寂しい、薄汚れた街の風景が描かれるようになった。そして敗戦。驚いたことには、抽象画が生まれた。茶色い画面に黒い線を引いた作品。これはなに?と思う間もなく、病気で亡くなった。
会場では松本竣介の生涯をたどるヴィデオが上映されていた。そのなかで「生きてゐる画家」という文章が引用されていた。松本竣介が書いて雑誌「みずゑ」の1941年4月号に掲載された文章だ。よく引用される文章だが、全文を読んだことはなかった。ふと思い立って、地下の図書室に行ってみた。
担当者にたずねると、「みずゑ」はすべてファクシミリで保存されているとのこと。さっそく調べてくれた。「ありました」の声。行ってみると、その頁がパソコンの画面に写っていた。感動した。こまかい字でびっしり5段組み。それが4頁もある。「長文ですね」とわたし。「そうですね」と担当者。
帰りの電車のなかで読んでみた。同誌1月号に掲載された軍人3人と美術批評家1人の座談会(時局に資する作品を求めたもの)にたいする反論だ。あの時代にあってこれがどれほど勇気ある文章であったか。身がふるえる思いがした。
(2012.7.6.神奈川県立近代美術館葉山)
昔、大原美術館で「都会」(1940)をはじめて観たとき、ひじょうに惹かれた。居並ぶヨーロッパの名画のなかにあって、特別な存在感を主張していた。それ以来、今に至るまで、さまざまな作品を観てきた。いつも気になる画家だった。
本展はその画業を辿るものだ。約120点の油彩画と約60点の素描、そして手紙、写真、雑誌等の資料が展示されている。それらを観てわかったことは、松本竣介の画業が、第二次世界大戦をはさんだ激動の時代と完全にオーバーラップしていることだ。
松本竣介は1935年の「建物」で二科展に初入選した。これはルオーのように黒くて太い線で描かれた作品だ。が、すぐに作風が変わった。前述の「都会」(1940)をふくむ数点で頂点にたっしたその作風は、さまざまなイメージが重なり合うモンタージュとよばれる幻想的なものだ。チラシ(↑)に使われている「黒い花」(1940)もその一例だ。
しかし時あたかも第二次世界大戦に突入する時期。作品には、人通りがなく、うら寂しい、薄汚れた街の風景が描かれるようになった。そして敗戦。驚いたことには、抽象画が生まれた。茶色い画面に黒い線を引いた作品。これはなに?と思う間もなく、病気で亡くなった。
会場では松本竣介の生涯をたどるヴィデオが上映されていた。そのなかで「生きてゐる画家」という文章が引用されていた。松本竣介が書いて雑誌「みずゑ」の1941年4月号に掲載された文章だ。よく引用される文章だが、全文を読んだことはなかった。ふと思い立って、地下の図書室に行ってみた。
担当者にたずねると、「みずゑ」はすべてファクシミリで保存されているとのこと。さっそく調べてくれた。「ありました」の声。行ってみると、その頁がパソコンの画面に写っていた。感動した。こまかい字でびっしり5段組み。それが4頁もある。「長文ですね」とわたし。「そうですね」と担当者。
帰りの電車のなかで読んでみた。同誌1月号に掲載された軍人3人と美術批評家1人の座談会(時局に資する作品を求めたもの)にたいする反論だ。あの時代にあってこれがどれほど勇気ある文章であったか。身がふるえる思いがした。
(2012.7.6.神奈川県立近代美術館葉山)