東京もすっかり秋が深まった――そう感じるようになったら、突然フォーレを聴きたくなった。フォーレなんて何年ぶりだろう。フォーレといってもいろいろあるが、聴きたくなったのは室内楽だ。
その理由は多分こうだ――まだ大学生のころ(あるいは社会人になってすぐのころ)、フォーレの室内楽全集を買った。LP5枚組。当時のわたしには高価な買い物だった。何か月も考えた末に思い切って買った。大切な、大切な宝物だった。ピアノ四重奏曲第1番を繰り返し聴いた。青春の激情がほとばしっていた。わたしの激情を受け止めてくれる貴重な音楽だった。
だがそのときは、中期以降の作品は、実はよくわからなかった。なんとなく石に躓いた感じがした。先に進めなかった。そしてそれっきりお蔵入りになった。もったいない話だが仕方がない。その全集は今でも手元にある。
それが心の片隅にひっかかっていたのだろう、フォーレを聴きたいと思ったときに、室内楽を、と思ったのだ。今ではナクソス・ミュージック・ライブラリーという便利なツールがあるので、それで聴き始めた。LPに入っていた演奏も、一部を除いてそこに入っている。LPの再生装置はあるが、昔の音がしない――そんな気がする――ので。
久しぶりにヴァイオリン・ソナタ第1番を聴いた。ピアノ四重奏曲第1番以上に青春が詰まっている音楽だ。それを聴いて胸がうずいた。胸がうずく自分が嬉しかった。まだこの音楽に反応する自分がいるのだと思った。あのころからもう40年近くたつのに。
フォーレには主な室内楽が10曲ある。よし、それを作曲順に聴いてみようと思った。名付けてフォーレ・プロジェクト。1日に2曲以上は聴かないことを自分なりのルールにした。今はまだ8曲目までしかいっていない。
正直にいって、ドビュッシーやラヴェル(フォーレの弟子だ)にくらべて、フォーレの音楽はなぜこんなに地味なのかと思う。室内楽はとくにそうだ。ピアノ曲や歌曲も同時に聴いているが、それらのほうが面白い場合もある。
そういうなかで、ピアノ五重奏曲第2番に惹かれた。ふと思い当たるふしがあって、吉田秀和全集を見てみたら、「私の好きな曲」で取り上げられているフォーレの作品がこれだった。あらためて読み返してみて、唸ってしまった。わたしなどには及びもつかない深さだ。ここまで聴き込まなければほんとうに聴いたことにはならないと、あらためて吉田さんに教えられた気がする。
その理由は多分こうだ――まだ大学生のころ(あるいは社会人になってすぐのころ)、フォーレの室内楽全集を買った。LP5枚組。当時のわたしには高価な買い物だった。何か月も考えた末に思い切って買った。大切な、大切な宝物だった。ピアノ四重奏曲第1番を繰り返し聴いた。青春の激情がほとばしっていた。わたしの激情を受け止めてくれる貴重な音楽だった。
だがそのときは、中期以降の作品は、実はよくわからなかった。なんとなく石に躓いた感じがした。先に進めなかった。そしてそれっきりお蔵入りになった。もったいない話だが仕方がない。その全集は今でも手元にある。
それが心の片隅にひっかかっていたのだろう、フォーレを聴きたいと思ったときに、室内楽を、と思ったのだ。今ではナクソス・ミュージック・ライブラリーという便利なツールがあるので、それで聴き始めた。LPに入っていた演奏も、一部を除いてそこに入っている。LPの再生装置はあるが、昔の音がしない――そんな気がする――ので。
久しぶりにヴァイオリン・ソナタ第1番を聴いた。ピアノ四重奏曲第1番以上に青春が詰まっている音楽だ。それを聴いて胸がうずいた。胸がうずく自分が嬉しかった。まだこの音楽に反応する自分がいるのだと思った。あのころからもう40年近くたつのに。
フォーレには主な室内楽が10曲ある。よし、それを作曲順に聴いてみようと思った。名付けてフォーレ・プロジェクト。1日に2曲以上は聴かないことを自分なりのルールにした。今はまだ8曲目までしかいっていない。
正直にいって、ドビュッシーやラヴェル(フォーレの弟子だ)にくらべて、フォーレの音楽はなぜこんなに地味なのかと思う。室内楽はとくにそうだ。ピアノ曲や歌曲も同時に聴いているが、それらのほうが面白い場合もある。
そういうなかで、ピアノ五重奏曲第2番に惹かれた。ふと思い当たるふしがあって、吉田秀和全集を見てみたら、「私の好きな曲」で取り上げられているフォーレの作品がこれだった。あらためて読み返してみて、唸ってしまった。わたしなどには及びもつかない深さだ。ここまで聴き込まなければほんとうに聴いたことにはならないと、あらためて吉田さんに教えられた気がする。