エド・デ・ワールト指揮のN響でブルックナーの交響曲第8番を聴いた。いうまでもなく1890年の第2稿による演奏(ノヴァーク版)。
ステージにはハープが3台。そうか、3台だったか、とあらためて思った。やっぱり壮観だ。基本的には3管編成なので、ハープ3台は突出している。これが第2楽章のトリオと第3楽章でものをいうわけだ。
ワールトが登場。第1楽章が始まる。低弦が小声で呟くように第1主題を奏する。物々しくなく、自然体で、柔らかい音だ。ホルンの経過句。アルプスの情景が目に浮かんだ。そびえたつ岩山と深い谷。点在する村々。黄昏。
第2楽章はワールトのビート感が全開だった。ワールトは弾みのあるビート感をもっている。もともと軽めの音で、粘らないリズムの持ち主だ。それに加えてノリのいいビート感をもっている。だからなのか、若いころにはジョン・アダムズやスティーヴ・ライヒも指揮していた。CDをもっているが、名演だ。そのビート感がこの楽章では――とくに後半になればなるほど――生きていた。
第3楽章は名演だった。音楽にみずから語るところを語らせ、いつしか巨大な音楽が生まれる、そういう演奏だった。自分の型で大向こうを唸らせる巨匠風の演奏ではない。音楽にたいしてもっと謙虚な演奏だ。その音楽的な充実度は高い。
「宇宙的な孤独」という言葉が浮かんだ。自分で考えた言葉ではないだろう。どこかで見かけた言葉にちがいない。どこで見かけたかは定かではない。ともかく宇宙のなかの孤独な存在としての人間(=自分)、あるいはある絶対的な孤独感、が感じられた。ワーグナーのような闘争の音楽ではなく、ひたすら孤独に浸る音楽。
やがてクライマックスがくる。それは内面の高まりとしての帰結だ。マーラーのアダージョ楽章のように天啓として訪れるのではない。
第4楽章は以上のすべてが集大成された壮麗な演奏だった。
西原稔氏のプログラム・ノートにも触れられているが、1892年のハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによる初演には、ブラームスも姿を見せた。これはわたしの勝手な想像だが、ブラームスはそのときブルックナーのすべてを理解したのではないか。その4年後のブルックナーの葬儀にもブラームスは姿を見せた。楽壇政治の渦中にあった二人ではあるが、ブルックナーを真に理解していたのは、案外ブラームスだったのではないか。
(2012.11.17.NHKホール)
ステージにはハープが3台。そうか、3台だったか、とあらためて思った。やっぱり壮観だ。基本的には3管編成なので、ハープ3台は突出している。これが第2楽章のトリオと第3楽章でものをいうわけだ。
ワールトが登場。第1楽章が始まる。低弦が小声で呟くように第1主題を奏する。物々しくなく、自然体で、柔らかい音だ。ホルンの経過句。アルプスの情景が目に浮かんだ。そびえたつ岩山と深い谷。点在する村々。黄昏。
第2楽章はワールトのビート感が全開だった。ワールトは弾みのあるビート感をもっている。もともと軽めの音で、粘らないリズムの持ち主だ。それに加えてノリのいいビート感をもっている。だからなのか、若いころにはジョン・アダムズやスティーヴ・ライヒも指揮していた。CDをもっているが、名演だ。そのビート感がこの楽章では――とくに後半になればなるほど――生きていた。
第3楽章は名演だった。音楽にみずから語るところを語らせ、いつしか巨大な音楽が生まれる、そういう演奏だった。自分の型で大向こうを唸らせる巨匠風の演奏ではない。音楽にたいしてもっと謙虚な演奏だ。その音楽的な充実度は高い。
「宇宙的な孤独」という言葉が浮かんだ。自分で考えた言葉ではないだろう。どこかで見かけた言葉にちがいない。どこで見かけたかは定かではない。ともかく宇宙のなかの孤独な存在としての人間(=自分)、あるいはある絶対的な孤独感、が感じられた。ワーグナーのような闘争の音楽ではなく、ひたすら孤独に浸る音楽。
やがてクライマックスがくる。それは内面の高まりとしての帰結だ。マーラーのアダージョ楽章のように天啓として訪れるのではない。
第4楽章は以上のすべてが集大成された壮麗な演奏だった。
西原稔氏のプログラム・ノートにも触れられているが、1892年のハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによる初演には、ブラームスも姿を見せた。これはわたしの勝手な想像だが、ブラームスはそのときブルックナーのすべてを理解したのではないか。その4年後のブルックナーの葬儀にもブラームスは姿を見せた。楽壇政治の渦中にあった二人ではあるが、ブルックナーを真に理解していたのは、案外ブラームスだったのではないか。
(2012.11.17.NHKホール)