Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「リア」随想

2013年11月11日 | 音楽
 日生劇場の「リア」。当日ざっとプログラムを読んだが、長木誠司氏の「解説」が気になって、今日あらためて読み返してみた。さすがに過不足のない的確な解説だ。そのなかにヴェルディの「リア王」(未完のオペラ)について触れたくだりがあるので、それをご紹介したい。

 周知のとおりヴェルディにとって「リア王」のオペラ化は悲願だった。結局未完に終わったけれども、一時は本気になって取り組んだ。その頃だろう、ヴェルディが台本作家のカンマラーノに宛てた手紙の要旨が「解説」で紹介されている。

 それによると、主役は5名(リア王、コーディリア、道化、エドマンド、エドガー)で、2人の姉妹(ゴネリル、リーガン)とグロスター伯、ケント伯は脇役に留めるよう提案しているそうだ(1850年2月28日付けの手紙)。

 これを読んで、考えてしまった。このような構成だと、コーディリアだけが前面に出て、リア王の悲運を想うメロドラマに単純化されてしまうおそれがある。またリア王の鏡像ともいえるグロスター伯の影が薄くなり、厚みに欠ける可能性がある。なるほどヴェルディの発想はそうなのだな――当時のオペラはそうだったのだな――と思った。

 その点、ライマンの「リア」で使われたヘンネベルクの台本は、ゴネリル、リーガン、コーディリアの3姉妹が均衡している。リアをめぐる力のダイナミズムが働いている。またグロスター伯の悲劇もきちんと描かれ、エドガーとエドマンドの対立のダイナミズムが生きている。

 このような台本があってこその音楽だったわけだ。でも、それにしても、この音楽はすごかった。微分音とクラスターの駆使は、不協和音などという生易しいものではなかった。打楽器の炸裂や金管の咆哮などはむしろ古典的に感じられた。そんなものは通り越してしまって、なにかこの音楽に賭ける一回限りのものがあった。

 こういう音楽が生まれることがあるのだ。たとえば、音楽の性質はまったくちがうが、プーランクの「カルメル派修道女の対話」、そして村松禎三の「沈黙」。これらの音楽は作曲者が精神の極限までいった軌跡なのだ。プーランクの場合は「死」と向き合い、松村禎三の場合は「信仰」と向き合ったその軌跡だ。

 ライマンの「リア」にも同じものを感じる。では、ライマンはなにと向き合ったのか。たんに「老い」ではないだろう。むしろ人間存在の不確かさ――存在の基盤の不確かさ――といったものではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする